夏の夜、月と物語を



※名前変換ありません



 ある夏の夜のこと。一期一振は弟である藤四郎の名のつく短刀たちを寝かしつけ、それから風呂を済ませていた。いつもは弟たちと一緒に入浴しているのだが、今日は違った。明日からの出陣に備えて、任務の確認や部隊の編成などを部隊長とともに打ち合わせていたのだ。風呂場から出ると、すっかり高く昇ってしまった月が闇夜を照らしていた。自分も早く休まなければ、と一歩踏み出したところで、あるものが目に入って立ち止まった。
離れに、主人である審神者の部屋がある。その審神者の部屋の明かりがまだついている。いつもなら、この時間には主人も休んでいるはずなのだが。疑問に思った一期は、離れへと足を向けた。
 明かりを消し忘れたのなら、自分が主人を起こさないようにして消せばいい。主人が起きているのなら、就寝をそっと促してやればいい。あるいは、誰かが主人の部屋を訪れているのなら。

(……あまり考えたくはないな)

 頭をよぎった可能性と、胸に走った焼けるような痛みを、首を振ってかき消す。
 物音を立てないようにして主人の部屋の前に立つ。明かりがついていて、主人のものらしき影も時折動いている。明かりを消し忘れたということではなくて、起きているのだ。
 一期は障子の前に膝をつくと、控えめに声をかけた。

「夜分に失礼します。一期一振です」
「……一期?」

 驚いたように少し間を置かれた返事。戸惑いの色だけで、特に問題はなさそうだ。どうぞ、という主の声に従って、部屋に入る。
 主は明かりのついた文机の前で、政府からの書類を広げていた。仕事をしていたのか、と無意識に安堵する。

「一期、こんな時間にどうしたの?」
「このような刻限に訪れる無礼をお許しください。主の部屋の明かりがついているようでしたので、まだ起きていらっしゃるのかと……」
「ああ、そうだったんだ。心配かけちゃったかな」
「主、そろそろお休みになられたほうがよろしいかと」
「うん、それは、わかってるんだけどね」
「……眠れませんか?」
「……うん、まあそんなとこ。布団に入っても目がさえちゃって、全然眠れなくて。しょうがないから仕事してたんだ」

 といって、彼女はばつの悪そうな顔で笑った。特に重大な任務があるわけでもない今、主が心配するようなことはあまりないように思える。今夜は単に眠れなくなってしまっただけだろうか。

「私でよければ、話し相手になりますよ」
「え? でも、一期は明日出陣控えてるのに……」
「眠れない主が気になって、今度は私が眠れません」
「うーん……そう? じゃあお言葉に甘えようかな」

 一期の言葉に、後ろ頭をかきながらうなずく主。文机の上の書類をまとめて端のほうへ寄せて片づけていると、主は何かを思いついたように声を上げた。

「あ……ねえ、ひとつお願いしてもいい?」
「はい」
「あのね、一期に本読んでほしい」
「は、本を……?」
「うん。たまにいち兄が寝る前に本を読んでくれるって、乱くんから聞いたんだ。私も聞きたいなって」
「はあ……ですが、主のような女性に聞かせるようなものでは……」
「だめ? 私の部屋にある本でいいんだけど」
「…………承知しました」

 無意識によるものだろうが、審神者の表情はおねだりする幼い子供のようにあどけなく、そして愛らしかった。好意を抱いている相手にそんな顔をされては断れるものも断れない。思わず一期は承諾の返事をしていた。喜びに破顔する主に苦笑いする。

「あまり期待しないでいただけると助かるのですが……」
「ごめんごめん。お願い聞いてくれてありがとう。ちょっと待ってて、本持ってくる」

 しばらくして審神者が持ってきた本というのが、源氏物語の訳本だった。

「あ、主……源氏物語……ですか……」
「なんかほかにめぼしいものがなくて……読み聞かせといったら昔話かなと思って。だめだった?」
「い、いえ……だめとかそういうわけでは、ないのですが……」

 審神者が持ってきたのは源氏物語の序盤だ。若い光源氏の女性関係が中心となって描かれている。当然、寝所での描写も多くなる。
 これを持ってきたということは、主はこれの中身を知っているのではないのか。知っているうえで、自分に語ってほしいと言っているのか。一期の胸中にかすかな期待と、それを打ち消す主従の信頼感とが混ざり合った複雑な思いが渦を巻いた。

(私の理性が試されているのか……)

 審神者はそんな一期の葛藤もいざ知らず、布団に寝そべってすっかりくつろいでいる。その様子に、一期は咳払いをして邪心を追い払うと、手にした本を開いた。
 静かに語り始めた一期の声に、審神者は熱心に聞き入っていた。心地よい声と、適度な間を置いた語り口調が審神者の心をとらえていた。しかし、物語が進むにつれて、彼女の表情がだんだんと曇っていった。
「……主、どうされました?」
「あ、うん……ちょっと待って、ええっと、藤壺女御、葵上、六条御息所、空蝉、夕顔……あと、今紫の上が出てきたね」
「はい」
「え……これまだ最初のほうだよね、もう六人の女性と関係持ってるとか……」
「まあ……昔は一夫多妻が認められていたのもありますから……」
「でも、今だって浮気話とかあるし……男の人ってやっぱり浮気性なのかな」

 と言って眉をひそめる審神者に、思わず一期は身を乗り出した。

「主! 私は違いますからな! 私は……!」
「い、 一期?」
「私は心に決めた女性一筋です!」
「え……それどういう意味? 一期には心に決めた人がいるの?」
「あ……」

 主の問いに、頭に上っていた血が一気に引いていった。思わず口走っていた自分の言葉を思い返して、さらに頭が冷えていく。勢いあまって何を言ってしまったのだと後悔するが、時すでに遅し。主人の耳にばっちりと入ってしまっていた。
 なんと言ってごまかそうか。いや、それよりも。

(この思いを、打ち明けてもいいだろうか)

 今まで、こんな想いは主の重荷になるからと、審神者への好意をひた隠しにしてきた。忠誠心に紛らわせてきた。ここで打ち明けては今までの苦労と、築き上げてきた信頼が水の泡になるだろう。だが、こんな状況はもう訪れないかもしれない。まさに千載一遇の機会なのだ。
 二つに分かれて戦っていた一期の心は、やがて一方が勝利をあげた。不思議そうに一期を見つめる審神者の手を両手でつかむと、一期は息を吸い込んだ。

「わ、私は……主、あなたをお慕いしております……」

 主が目を見開いた。彼女の反応が怖くて、一期はさらに言葉を重ねる。

「あなたの迷惑になるのはわかっています。ですが……もう抑えきれません、主……」

 どくどく、と自分の心臓の音がうるさい。人間の体を得てから、人間とは不思議なものだと思ってきた。一人の人間に対してこんな気持ちを抱くことも、一人の人間を前にして激しく動いたわけでもないのに早鐘を打つこの体も。煩わしくて、いとおしい。それはすべて、この女性が与えてくれたことなのだと思うと、さらにいとおしくなってくる。

「い、一期……あのね……」
「は、はい」
「さっき読み聞かせてくれてた時、結構飛ばしてた部分あったよね……その、源氏と女性の夜の描写とか」
「え、ええ」

 いくらくつろいだ様子の主とはいえ、布団に寝転んでいる姿は、一期にとっては目の毒でしかない。その上男女関係にある文章を読むとなったら、理性と戦うことに必死になって、読み聞かせるどころではない。だから一期はあえて、その部分をぼかしたり飛ばしたりしていたのだ。さりげなくやったのに、まさか気づかれていたとは。

「あの、だから……その……」
「主?」
「一期に……その部分を、教えてほしい……」
「は……」
「夜の源氏物語を、教えてほしい……一期に」

 一瞬、何を言われたのかよく理解できなかった。主は頼りない光源でもわかるほど顔を真っ赤にしながら、夜の男女関係を教えてほしいと言っている。ということは、つまり、一期に今、ここでその行為を。誘われている、確実に。
 そこまで考えて、一期は頭が爆発しそうになった。理性も主従のしがらみもなにもかも吹き飛んでいった。
 主の手を一旦離すと、一期は布団に近寄った。寝そべっている主の頬に恐る恐る触れる。主の頬は赤く、熱かった。

「主……そんなことを惚れた女性に言われたからには、もう引き返しませんぞ」
「……うん。好きな人に、一期に、してほしい……」
「主……!」

 夜も更けて、本丸の誰もが寝静まっている夏の夜のこと。二人が思いを通わせたことは、天に昇った月だけが知っている。


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