いつまでも変わらぬ愛とともに



※太郎と主の最後の瞬間の話で切ない系の話です



 歴史修正主義者との戦いは政府側の勝利で終わった。正確に言えば、政府と検非違使が手を組み、時間遡行軍を一網打尽にしたのだ。遡行軍がいなければ刀剣男士たちは歴史をさかのぼることもない。遡行軍を殲滅した後は一切歴史をさかのぼらないという条件で、政府は検非違使と手を取ることができた。味方というわけではなかったが、歴史修正主義者たちと戦っている最中に検非違使に襲撃される恐れがないということは、思いのほか戦いを有利にした。
 それでも歴史修正主義者の残党の後処理には一年以上を要した。首謀者などを完全に裁くのはまだまだかかりそうだ。ともあれ、審神者と刀剣男士たちはもう戦う必要がなくなったのだ。功労者である審神者には、褒章となんらかの報酬が与えられることになっている。政府が要求を呑める範囲で、好きなものを所望してもいいそうだが、は特に思いつかず保留していた。
 の拠点である本丸は現代ではあるものの、少し特殊な環境である。刀剣男士たちのみが歴史をさかのぼって戦っていたのだが、その歴史をさかのぼるための特殊な門がある。過去と現代をつなぐ門で、にはどういう仕組みで動いているのかもわからない。ただ、月に一度は政府関係者に連れられて神職のような雰囲気の男が門の様子を見に来ていた。詳しく説明されてもさっぱりわからないので、結局「霊的な何かで過去と本丸をつないでいる」というざっくりとした認識にとどまった。戦いが終わった今、その門は封じられている。
(もしかすると、この本丸も霊的な何かで出来てるのかな……すごい今更だけど)
 長い戦いを耐え抜いた刀剣男士たちをねぎらい、酒を飲み交わしたりする日々はあっという間に過ぎていった。刀剣男士たちは皆、との別れが迫っていることに気付いていたが、それを表には出さず、普段どおりにすごしていた。それがにはありがたく、少し苦しかった。
 政府の特使がの元を尋ねてきた。話は一つだ。はもう審神者である必要がなくなったのだから、この本丸を離れることになる。
「みんなは……刀剣男士たちはどうなるんですか?」
「あなたがこの本丸を離れて、審神者の力の影響が彼らから完全に消えた時、彼らは元の付喪神に戻ります。物言わぬ刀剣に」
「……そう、ですか」
(そうしたら、太郎さんは……? 太郎さんは、すぐには消えないの? それとも、もう会えない?)
 が表情を曇らせたことにも気付かず、政府の特使は話を続ける。
「あなた自身の審神者の力が今すぐに消えるわけではないので、どれほどの期間刀剣男士たちが残るかは明言できません」
「私の力次第ってことですか?」
「そうですね。ですから、あなたには準備が整い次第なるべく早くここを離れていただきたいのです」
 の力の及ぶ範囲であれば、本丸を離れても刀剣男士は──太郎は人間の体を保てるのではないか。そう思ったは居てもたってもいられず、身を乗り出すようにして特使に詰め寄った。
「あのっ、私がいただける報酬って、なんでもいいんでしょうか?」
「は? え、ええ、政府のできる範囲でですが」
「じゃ、じゃあ……」
(ごめん、みんな。みんなにとって公平な主であるようにしてきたつもりだけど……最後の最後だから、わがままになってもいいかな……?)



「ここを離れれば、あなたも審神者の力がいつ消えるともわからないんですよ。それでも本当にそれを望まれるのですか」



 が審神者でなくなってから三ヶ月が過ぎた。審神者になる前に住んでいたところへ戻り、休職していた職場に復帰した。何年も離れていたのでブランクはあったが、それも最初の一ヶ月で取り戻した。同期だった者たちは、の先輩になっていた。
 審神者の報酬として、一生遊んで暮らせるというほどではないものの、贅沢さえしなければ働かずとも生活していける賞金をもらっている。そういう生活を選んでいる元審神者もいるだろうが、は一日何もしないでいるのも暇すぎると思ったので復職したのだ。
 審神者になる前の日々が戻りつつあった。一つ変わったことといえば、帰る家には同居人が増えたことだ。
「ただいまー」
「おかえりなさい、
 同居人とはいうものの、人ではない。刀の付喪神である太郎太刀が、本体とともにの一人暮らしの部屋にいる。
 政府からの賞金以外の報酬としてが望んだことは、太郎と一緒に戻りたい、ということだった。の言葉を聞いた特使は、最初こそ目を丸くしていたが、特に珍しい願いでもなかったようで、すぐに頷いた。一言釘をさしてきたが。以来、は太郎とともに実質二人暮らしという形になっている。
「太郎さん、夕飯は何がいいですか?」
「主……、私も手伝います」
「あ……ええっと、気持ちはありがたいんですけど、できれば座っててほしいかな……危なっかしくて目が離せませんし」
「……そう、ですね……わかりました、私は大人しくしています」
 部屋着に着替えてエプロンをつける。食事を作るのはの役目だった。太郎は特に不器用というわけでもなかったが、調理に関しては不器用と言わざるを得ない。もほとんど具材を切って味付けをしてオーブンレンジのような多機能調理器につっこむだけの料理しかしないが、太郎は具材を切る段階が非常に危なっかしい。力が入りすぎるのか、濡れた野菜をつかんでは手が滑って自分の手を切る、という事態になる。それを目撃して以来、太郎を台所に立たせたことはない。
「いただきます」
「いただきますー」
 本丸にいた頃の食事に比べると品数も少なく、和食でもないのではいつも太郎の口に合うか不安に思いながら食事を作るのだが、太郎は文句を言ったことはない。本当はどう感じているのだろうと思うことはあるが、自身で食べられないほどにまずい料理になったことはないので、太郎にとっても少なくともまずくはないと思いたい。
「不思議なものです」
「うん?」
が仕事に出ている間はひとの身体ではないので、時間が流れるという感覚はないはずなのに、を迎えると一日離れていたという感覚は確かにあるんですよ」
「へえ……」
 本丸を離れると審神者の力がいつ消えてもおかしくない。そう特使に言われても、審神者の力を自身はっきりと感じたことがないので、いつ消えるかの前兆も感じられない。そのため、太郎はがそばにいない間はただの刀になっているのだ。太郎の本体は、長すぎて床に置くことはできず、壁に立てかけられている。本当は床に置いたほうがいいのだろうが、では持つこと自体やっとかっとだ。
が恋しいあまり、でしょうか」
「……っ! もう、急にそういうこと言うの、だめですよ……」
「だめですか?」
「心臓に悪いです」
「困りましたね。それでは、私はへの気持ちを行動で表現するしかないのでしょうか」
「……! ……!」
 向かい合って座っている状態では、太郎からの視線を避けようがなく、いとおしげに細められた視線を受けては赤面した。二人きりの部屋では逃げようがない。太郎の愛情表現は嬉しいが、それと同じくらい照れる。太郎が本気で言っているとわかっているので、慣れるものでもなかった。
 夕食が終わると入浴を済ませ、太郎とともに布団に入る。太郎の背丈ではの布団は少し小さいが、それは本丸にいたときも同じだった。小さくて狭い布団の中で、太郎の体温を感じながら眠る。
「しあわせだな……」
?」
「こうして本丸にいた頃と変わらずに、太郎さんと一緒にいられることが、幸せだなぁと思って」
「そうですね……私もです」
 指を絡めあって、が太郎の胸に擦り寄ると、太郎はの額にくちびるを落とした。幸福感がさらに増して、不意に泣きそうになった。
 朝起きて、二人で朝食をとって、は仕事に行く。その間太郎は本体に戻る。が帰宅する声で太郎は人の形をとり、また二人で食事をして、風呂に入って、ともに寝る。たまには睦み合って朝を迎える。なんてことはない日常が幸せだと、怖いくらいに幸せだとは思っていた。
 最初のきっかけは、太郎がものを取り落とすことが多くなったことだった。テーブルの上に転がった箸を、一言謝りながら太郎は拾う。立ち上がって、台所で軽くゆすいでからまた座った太郎に、は心配になって声をかける。
「太郎さん、大丈夫ですか?」
「ええ、すみません」
 頻繁にというわけではないが、箸を取り落とすという日常生活では考えにくい事態がたまにあるということが、の心をじんわりと不安で覆っていった。何が起こっているのか、まだにも太郎にもわかりかねている頃のことだ。
 それから、太郎が気をつけていたのか箸を取り落とすことはあまりなくなった。が不安に思ったことも忘れかけていた、ある日の朝。
、おはようございます」
 いつものように太郎の声で目を開けると、カーテンから漏れる朝日がまぶしくて、片目を細めて、もう片方の目をこすりながら太郎を見た。
(あ、れ)
 太郎の身体はと朝日の同線上にいた。太郎がいるのでに朝日が当たることはないはずだ。なのに、まぶしい。
(太郎さん……透けてる……?)
 一瞬で目が覚めたが太郎の腕をつかむ。ちゃんとつかめる。太郎の身体は透けていない。もう透けていない。
「どうしました?」
「あ……ううん、ちょっと、寝ぼけてた」
 ちゃんと太郎に伝えたほうがいいのだろうが、口にするのが怖かった。言葉にしてしまえば、早まってしまいそうで。太郎が、人の体を保てなくなる日が。
(だめ……まだ、だめ。消えないで、お願い。まだ、審神者の力、消えないで、お願いよ)



 それでも、いくら願っても、本丸ではない場所では審神者の力は弱まる一方という事実は、覆らなかった。
 太郎の体が一瞬透けて見えたあの朝から一年たって、も太郎も、ゆっくりと近づく審神者の力の消失に気付いていた。お互い明言しなかったが、不安を埋めるように触れ合うことが多くなっていった。それでも、いつ来るかわからない消失の日への恐怖は完全にぬぐえない。
 そしてとうとう、太郎の身体をすり抜ける日が来たのだ。手を伸ばしたの手が、太郎の手を通り抜けた。
「た、ろうさん……太郎さん、太郎さんに、触れないよ……?」
「っ……、すみません、……」
「太郎さんのせいじゃないの、私の力がないから……!」
 いつの間にかの頬に涙がつたっていた。衝撃のあまり自分が泣いていることもわからなかった。
 それからは、ほんの一瞬だけ触れ合えることもあるが、基本的には太郎の身体に触れられなくなった。人の形をとれるが、実体がなくなっている。当然、触れ合うこともできなければ、食事をしたりという日常を送ることもできない。そこまで力が弱くなっていると、毎日人の形をの前で取ることも難しくなっていった。人の形をとるのは二日に一回になり、三日に一回になり、五日に一回になり、十日に一回になり、一ヶ月に一回に、だんだんと日が開くようになっていく。太郎の本体の大太刀を苦心して持ち運び、抱きかかえて眠る日々が続いた。
 それでも、一緒にいる感覚はなんとなくあった。姿は見えなくても、声は聞こえなくても、が呼びかけると返事があって、のことを見ている。そんな感覚だけでも、反応があることが嬉しかった。
 一人では持ち上げることがやっとの状態で太郎の本体を持つを、太郎は心配しているようだった。
「危ないかな? でも、やっぱり太郎さんと一緒に寝たいし。……太郎さんも、ですよね?」
 こう言うと、太郎は渋々、といった表情で頷いたのが頭に浮かんだ。は顔をほころばせると、太郎の柄に頬を擦り付けた。
「太郎さん、おやすみなさい。また明日」
(あ……おやすみなさいって、返してくれた)
 それが本当に太郎の反応なのか、の思い込みなのか。どちらでも構わなかった。
 人の形をした太郎に会えるのは、一年に一度になった。が審神者でなくなってから、およそ七年後のことだった。
 明日は待ちに待った太郎と会える日で、早く寝なければと思っているのに、心が逸ってしまって寝付けなかった。
 太郎と初めて思いを交わしたときのことを思い出す。ちょうど今ぐらいの季節だった。早春でまだ肌寒い日もあったのに、太郎が迎えに来るまで本丸の裏山で眠りこけてしまっていた。あの後、風邪を引かなかったのが自分でも不思議なくらいだった。
(太郎さん、あの日のこと覚えてる……? 私は、忘れたりしないよ、ずっと……)
 太郎の本体を抱きかかえて昔を懐かしんでいると、いつの間にか眠りについていたようだ。ふと意識が浅くなったと思ったら、布団の中があたたかい。しばらく感じていなかった感覚だった。
「ん……太郎さん?」
「はい、私はここですよ」
 心底聞きたかった声がした。目を開けると、太郎が微笑みながらの隣に寝そべっていた。の寝顔を眺めていたようだ。
「た、太郎さん……! 太郎さん、太郎さん……会いたかった!」
「私もです。ずっと貴女に触れたかった」
 思わずこみ上げてきた涙もぬぐわずに太郎に抱きつくと、太郎も力強く抱きしめ返した。しばらくそうして抱き合い、太郎の胸の中で涙を流していると、太郎が口を開いた。
「やはり、私はだめな男です。貴女を泣かせてしまう」
「ち、違うよ、これは嬉し涙だから……」
「ですが、淋しく思っているのでしょう」
「そ、そりゃ……毎日会って話せてたときから比べると、そうだけど……でも、太郎さんがずっとそばにいてくれてるのは、わかります」
……」
「それに、会えないのは太郎さんのせいじゃないですよ」
(私の力は、どれくらいもつんだろう……太郎さんに、いつまで会えるのかな)
 心の中の不安を打ち消すように、太郎に抱きついた。太郎は、何も言わずに抱きしめ返してくれた。後々になって思い返すと、太郎もと同じことを考えていたのだろう。



 太郎が人の形をとれるのが二年に一度になり、五年に一度になっていって、だんだんと年数も開いていった。が審神者でなくなってから、どれくらいの年数がたっただろうか。もうは初老に差し掛かってしまった。もう大太刀を持つことも出来なくて、ずっと布団のそばに置かれたままになっている。鏡を見て、すっかり皺が増えてしまった自分の顔を見るたびに、太郎が人の形をとっていなくてよかったのかもしれないと思うことがあった。老いた自分の姿をあまり見られたくはないのだ。
(もう若いときのままじゃないから、すっかり力も容姿も衰えてしまったし……太郎さんは変わらないままだから)
 姿は見えなくとも見守ってくれているので、こんなことを思っても仕方ないのだが。女の意地というやつだ。
です。私は変わらず、貴女を愛していますよ」
 不意に声がした。太郎の声のような気がして、彼の本体のほうを振り返ると、そこには太郎が人の形をとってたたずんでいた。微笑んでいる彼の顔を見て、はしばらく呆然としていた。
「……もう、急にそういうこと言うの、だめだって言ったのに」
「おや、そうでしたか」
「とぼけちゃって……言ったよ。何年前か、もう忘れちゃったけど」
「ええ、覚えていますよ」
「んもう」
 太郎が人の形をとったのは、何年前のことだろうか。間隔が開きすぎて年数を数えることもしなくなった。会ったときのことは忘れることなどないが。
「会うたびに泣かせていますね」
「嬉し涙です」
「はい、わかっています」
「……わかっていても、出るものなの。それに、最近特に涙もろくなっちゃって」
 太郎はの目尻にくちびるを落として、涙をぬぐっている。その体温を感じることが出来たのもいつ以来だろうか。体温まで感じられるとは、何かの前兆だろうか。
(……もしかして)
 がふと、ある予想を頭に思い浮かべる。その時に表情を曇らせてしまったのか、太郎がぎゅっとを抱き寄せてきた。もう身体は若いときのようにはいかずに、痛みを覚えてしまう。
「……
「はい」
「これまで、貴女の審神者の力のことを言及するのは避けてきましたが、今回はそうもいきません」
「……太郎さん?」
「私が人の身体をとることができるのは、これで最後です。貴女の審神者の力は、今日で完全に消えてしまいます」
 やはりか、とは妙に納得していた。太郎が最後に体温を感じられるまでの人型をとっての前に現れたのも、散り際の花のようだと感じていたのは間違いではなかったようだ。の中の審神者の力を使い切って、太郎は完全に物言わぬ刀になってしまう。
「なんとなく、そうじゃないかと思ってました」
……」
「人の形をとるのが最後、というだけでしょう? 太郎さんがいなくなってしまうわけじゃないんですから、そんな顔しないで」
「……はい、主」
「懐かしいですね、それ」
「主、……私がただの刀になってしまっても、どうかいつまでも、そばに置いてください。一生、貴女にお仕えします」
 太郎がの手をとって、思いを交わした日と同じことを言った。今でも鮮明に浮かぶ。日が落ちた裏山の寒さも、太郎の手のあたたかさも、太郎の言葉も、思いを交わした幸福感も、すべて。
「はい、はい……最後まで絶対に放しませんから……」
 そう返すと、太郎が目を細めた。気がつけば、太郎の手から伝わる体温がなくなっている。もう少しだ。
、私は幸せです。こうして貴女とともにあれたことが」
「太郎さん……」
「あの歴史修正主義者との戦いの日々も、戦いが終わってからの日々も、貴女がいたからこそです。が私の過ごす日々に色彩をつけてくれたんです」
「そんな、そんなの私のほうなのに。太郎さんがいてくれたから、こんなに幸せだったの」
 握っていた手の感触がなくなって、の手が下りた。太郎は変わらず微笑んでいる。その輪郭が、光にぼやけかかっている。
……いつの日か、貴女を迎えに来ます。そのときまで、どうか息災で」
「……なに、もう。お別れみたいに言わないでください。太郎さんは、ただ人の形をとれなくなるだけなんだから」
「……そうですね」
 の部屋の窓から差し込む光に、太郎の姿が透けている。彼の足元はもう見えなくなっている。その姿が涙で見えなくなっては困る。は最後の瞬間までは、涙をこらえようとした。いくらこらえようとしたところで、抑えられるものではなかったが。
、愛しています。ずっと変わらず、貴女を愛しています」
「私も……私も、太郎さんをずっと愛してます」
「はい」
 その返事を最後に、愛しい姿が完全に光に溶けた。あとには、彼の本体である大太刀が床に横たわっているだけだった。
 あれから幾年たとうと、最後の瞬間だけは忘れない。太郎の体温も、太郎が言った言葉も、最後の表情もすべて。次に会えるのは、が死ぬ時だ。太郎の本体は大きすぎての墓には入らないけれど、それでもきっと太郎は迎えに来てくれるだろう。彼は言葉を違えない男だ。その頃には、嬉し涙も流れないように涙もすっかり枯れているといい。嬉し涙だとわかっていても、泣かせてしまったと彼は言うのだろうから。


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