彼との距離



 のクラスには変わった同級生がいる。今月になって行われた席替えで隣の席になった男子で、名前は草薙京という。何がどう変わっているのかというと、彼は同級生だが同い年ではない。留年しているのでを含むクラスメイトより年上だった。そのせいかそうでないかは不明だが、彼は授業をサボることが多い。授業に出ていても、窓際の席から窓の外を眺めたり、ノートを取らずに黒板を眺めていたり、寝ていたりする。教師の話を全く聞いていないわけではなさそうだが、興味があるようには見えなかった。クラスメイトは、彼とはある程度の距離を保っているようだ。腫れ物に触るような、というわけではないが、他の同級生とは違った距離感で接している。彼は格闘が強いらしく、有名な大会にも出ているので、あこがれている人間も少なくはないだろう。ルックスも整っているほうだ。
 は、隣の席になるまで京と話したことがなかった。隣の席に決まった当初は、草薙京とはどういう人なのか、少し怖い感じがするけれど大丈夫だろうか、などと不安に思っていた。だが、席を移動してみると、意外にも彼のほうから話しかけてきたのだ。
「わりぃ、名前教えてくんねぇか」
「え……えっと、、です」
「よろしくな、
 と言って笑った彼に、は少々どもりながらよろしく、と返したのだった。いきなり名前呼びということにも驚いたが、それまでの京の印象とは違った声かけに、席に移動する前に抱えていた不安を砕かれた。その後に続いた「俺、忘れもん多いから、そん時は教科書とか見せてくれよな」というセリフには閉口したが。
(この人、案外気さくな人なのかも)
 良くも悪くも、普段の京は近寄りがたい雰囲気があった。それが怖い、という印象につながっていたのだが、この件をきっかけに京を怖いと思うことはなくなった。話してみると、家柄や格闘家としての強さからか自信家であること以外、彼は普通の男子高校生だった。
「あ、やべ。、教科書見せてくれよ」
「また? 昨日も数学の教科書忘れたよね、いい加減自分で持ってきなよ……」
「硬いこと言うなよ」
「いや、硬いことじゃないから。持ってくるのが当然だから」
「別にいいだろ。俺と席が近くなって役得じゃねぇか」
「役得とか自分で言わないでよ。京が変なちょっかい出してくるから、ノートよく取れないんだよね」
 は口ではそう言いつつも、京と話すのは楽しいので、机どうしをくっつけて彼に教科書を見せるのは、決して嫌ではなかった。それを知ってか知らずか、京はニッと笑ってこう言った。
「でも、つまんねーよりマシだろ」
「……う、ん」
 机をぴったりとくっつけて、いつもより近い距離。京の楽しげな目に瞳を覗き込まれて、は言葉に詰まった。唐突に気付いてしまったのだ、彼としゃべることが楽しいと。この席になってから学校が楽しくなったと。
(ああ、私って京のことが好きなんだ)
 それから彼に教科書を見せるときは大変だった。近い距離を意識してしまって、顔が赤くならないように平静を保つことに苦心しなければならなかった。そんなの事情を京が知るはずもなく、不意に顔を近づけてきたりする。そのたびに、勢いよく距離をとってしまう。よそよそしいと思われるかもしれないが、こうしないとの平静が保たれなかった。ただでさえ京との距離にドキドキしているのに、そんなことをされてはかなわない。
 好きだと気付いてから楽しい学校生活は、楽しいけれど苦しくなった。それでも、学校から帰宅すると、早く京に会いたい、早く朝にならないかな、と明日を待ち遠しく思う。今日も帰るとそんな風になるのか、などとぼんやり校門をくぐると、そこには単車にまたがった京がいた。
「あれ、まだ帰ってなかったんだ。いつも授業終わったら即行で帰るのに」
「まあな。お前も今帰るとこか?」
「うん」
 が頷くと、京はふうん、と返事をしながらヘルメットを取り出した。自分のヘルメットはハンドルにぶら下がっているのに、と思っていると、京がヘルメットを投げてよこした。
「俺も帰るとこだし、ついでに送ってってやるよ」
「えっ、ちょ」
「早く乗れよ」
 いきなり投げられたのでキャッチに戸惑っていると、京はすでに自分のヘルメットをかぶっていた。もう彼の中ではを送っていくことは決定事項のようで、乗車をしきりに促される。は混乱する頭でどうしようかと迷っていたが、待たされている京が不機嫌そうな声を出したことで、送ってもらうことに決めた。京の後ろにまたがり、おずおずと京の肩に手をかける。
「もっとしっかりつかまれよ」
「え、ええ? どこに?」
「ここ」
 というと、京は自分の腰を叩いた。それはつまり、にとっては京に抱きつく、ということを意味している。
(無理無理無理……)
 肩に手をかけるだけでもドキドキと胸が早鐘を打つのに、背中に抱きつくなどできるわけがない。この、肩に手をかけることでできる隙間がないと、胸の鼓動での気持ちがばれてしまいそうだ。隙間をつめられない今の関係は、ともすると切なくて苦しいが、それでいいのだ。この関係を壊すことが怖い。
「こ、ここでもいいでしょ。そんなに運転荒いの?」
「なんだよ、信用ねぇなあ。お前がバイクに乗るのが怖いんじゃねえかって気を遣ってやったのに。ま、運転は気をつけてやるけど」
「え、そうなの? ごめん」
 京の気遣いを断ったが謝ったが、その頃にはもうエンジンをかけてしまっていたので、の声はかき消されてしまった。これは、運転中は話しかけても無駄だろう。単車が走り出したことで、はそれ以降口を閉じた。
 京は言ったとおり、安全運転で走ってくれた。バイクに乗りなれていないのためか、最初はそれほどスピードを出さなかった。が強張っていた体から力を抜いた頃に、だんだんとスピードを上げていった。流れる街の景色が新鮮で、は飽きずにそれを京の後ろから眺めていた。
 国道を挟む交差点での長い信号待ちで、京が口を開いた。
「お前さ、好きなやつとかいんの?」
「……え?」
「最近ぼーっとしてるし、なんかおかしいし。そうじゃねぇかと思ったんだよ」
 やはり、の挙動不審は京にもおかしいと思われていた。思わず教室のノリでいない、と言いそうになって、は思いとどまった。
 これはチャンスではないか。彼のほうからそれらしい話題を提供してくれて、なおかつ二人きり。またとない告白のチャンスだ。
(え……でもどうしよう。告白なんて考えてなかったから、何言えばいいかわかんない……!)
 チャンスを目の前にしては混乱した。京の表情がわからないので、どう伝えればいいのか、言葉が浮かんでこない。
 がまごついている間に、交差点の信号が変わりそうになる。バイクが走り出してしまえば、エンジン音に紛れて声が届かなくなってしまう。はつばを飲み込むと、進行方向の信号が青になる直前に声を上げた。
「い……いる! 私の目の前にいる人!」
 交通量の多い国道沿いで、車の交通量も多い。その走行音に負けないように声を張り上げると、京の肩がびくりと一瞬震えた。そのまま信号が青に変わり、バイクが再び走り出す。
(ああぁぁ言っちゃった! どうしようどうしよう、何か反応してよ。次に停まる時に何か言われるかな? ああ絶対そうだふられる覚悟決めておこう)
 返事がないという状況にはじたばたと暴れたくなった。告白した恥ずかしさもあるが、京の反応が乏しいことや表情がわからないことが一番不安だった。ふられる、と考えた時に胸が痛んだが、告白すら考えていなかったので付き合うことなど想像もつかない。
 京は国道沿いのコンビニに入り、店頭から離れたところに停車した。エンジンを切ると、ヘルメットを脱いで、のほうに勢いよく振り返った。
「お前なあ! 人がせっかく安全運転してんのに、いきなり告んな!」
「えっええ? ご、ごめん……?」
「事故ったらどうすんだよ! あぶねえだろ!」
「えええ……ていうか、京が聞いたんでしょ? だから答えただけなんだけど、何怒ってんの?」
 理不尽な京の言い分に思わず反論すると、京は苦虫を噛み潰したような表情でガシガシと頭をかいた。それから長い息を吐いてうなだれると、同じように苦々しい声を出した。
「……俺の計画台無しにしやがって」
「え?」
「あーもうっ、俺が告白する予定だったんだよ! お前を送った後に! なのに先に告白されちゃ、格好つかねえだろ」
「は……?」
 苦々しい声で言い放つ京だが、その顔がだんだんと赤くなっていくのをは呆然と見ていた。京の言っている意味がすぐに理解できずに口を開けっ放しにしていたが、彼の言葉を何度も反芻して、やがて理解した。つまり、と京は両思いということなのだ。
「え……うそ、本当に?」
「嘘でこんなこと言えるかよ。ていうか、俺の態度でわかるだろ」
「えっ? わ、わかんなかった……」
「はあ……お前鈍すぎ。好きでもねえやつに何度も教科書なんか見せてもらったりしねえし、あんなに顔近づけたりするかよ」
 その言葉で、京が何度も教科書を忘れてきていたのはわざとだったことに気がついた。初めて知る事実に、が口を両手で覆った。そうでもしないと、大きな声を出してしまいそうだった。
「……ま、いいか。俺の予定とは狂っちまったけど、結果よければなんとやらだな」
「京……本当に? 本当に私なんかでいいの?」
「なんだよ、信用ねえな俺も」
「ち、違うよ! 信用してないんじゃなくて、ずっと片思いだと思ってたから、だから……夢みたいで……」
 京の言葉を、両手を横に振って否定すると、彼が笑ってその両手をつかんだ。そのままぎゅっと手を握られる。手から伝わるのは、京の体温がよりも高めだということだった。手のひらが少し汗ばんでいる。彼も、多少は緊張していたのだろうか。
「ほら、夢じゃないだろ」
「……うん」
 しばらく手を握り合って、これが現実だということを受け入れて、はようやく頷いた。顔を上げると、京が笑いかけてくる。その顔を見て、も頬を緩めた。
「よし、じゃあ帰るか。今度こそしっかりつかまってろよ」
「うん」
「大事な彼女を無事に家まで送り届けねえとな」
「……え?」
 大事な彼女、という言葉にどきりとして目を瞬いていると、京がの肩を抱き寄せてすばやくくちびるを奪い、すぐに離れた。一瞬のことで頭がついていかず、再び口を開けて呆然としているに、京がヘルメットを渡した。キスをされたと理解したの顔が真っ赤に染まり、はヘルメットをかぶることでそれを隠した。京はその様子を見て笑っている。
「……京のばか」
「あん? なんか言ったか?」
「なんでもない!」
 京の後ろにまたがったが、悔し紛れに京の背中に抱きつくと、京は「それでいいんだよ」と言ってバイクのエンジンをかけた。告白する前、肩につかまっていたときに出来ていた隙間は、もうなくなっていた。


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