言葉は少ないけれど



 庵さんの背中は広い。
 そりゃまあ体を鍛えているし、世界中から参加者が集まる異種格闘技大会に出ているんだから、背中以外の筋肉だってすごい。腕も太いし力も強い。
 手も大きくて、指が長くてごつごつしている。力強いけど、私に触れるときはほんの少し優しく触れてくれる。庵さん本人はそんなつもりなさそうだけど。というか、そう指摘したらすごい形相でそんなことはない、ってすぐに否定されそうだ。そんなに否定したら、そうだ、って肯定しているようなものなのに。
 私がなぜ庵さんの背中のことを考え出したのかというと、私が今現在庵さんの背中を見つめているわけでして。正確に言うと、ベッドに寝転がりながら雑誌を読んでいた私が、ベッドを背もたれにしてベースを弾いて作曲していた庵さんの腰から上部分を見ているのだ。
 ベースを弾いている庵さんはかっこいい。なんというか、色っぽい。背が高くて、どちらかというと上半身に筋肉がついているからガタイがよく見えるんだけど、その庵さんがベースを見つめて伏し目がちになって、手は思いのほか正確に音を奏でる。なんというか、その全体が艶っぽい。今は後ろ姿だからあまり見えないけれど。
 後姿の庵さんはなんというか、そう、ちょっと可愛い。真正面からだと、どうしてもその鋭い眼光が先に目に入ってしまう。普通の人はそこでもう怖いと思ってしまう。後姿だと、鋭い視線はない。代わりに、後ろや周囲の気配を探っているかのような、近寄りがたい雰囲気がある。そんな雰囲気を越えて、庵さんを後ろから見ると、後頭部が思ったより絶壁だなとか、すこし猫背だなとか、あとはやはり、背中が広いことに気がつく。
「……何をじろじろ見ている」
 などとぼんやり考えていると、庵さんが怪訝そうな声を投げてきた。振り返ったりはしないし、手元のベースもまだ離さない。私は、こんな風に見ていることも気付かれているだろうなあとなんとなく思っていたので、特に驚いたりしなかった。
「あ、気付いてたんだ」
「当たり前だ」
「やっぱりかー」
「……それで、何をじろじろ見ていた」
「うん? うんー……」
(なんて言おうかな。ここで素直に背中広いんだなーって見てたって言っても、それで会話終わっちゃいそうな気がするし)
 今まで作曲していたから構われてなかったけれど、特にそれを不満に思うこともなく自由にしていた。でも、せっかく会話が生まれたんだったらもっと庵さんと話したい。もっと庵さんの声が聞きたい。
 私は上半身を起こすと、庵さんの近くまで肘で這っていって、庵さんの背中に抱きついた。庵さんは動じることはない。
「……おい」
「ん……ちょっと雑誌読むの疲れたから、休憩」
「俺の背中でか?」
「うん」
「なんだそれは……」
 庵さんの呆れたような声。普段とは違う声音に、ついつい嬉しくなってしまう私。少しだけ庵さんの肩に頬を擦り付ける。
「えへへ……庵さんの肩、広いね」
 そう言ってから、これだと当たり前だ、って返されてしまうかなと思ったのだが、庵さんは何も言わなかった。何も反応しない代わりに、ベースを弾かなくなった。私の手を振り払わなかった。
(このままでいい、ってことかな)
 私は勝手にそう結論を出すと、もう少しだけ庵さんの肩に擦り寄った。庵さんがつけている香水のにおいがするくらいに、近くまで。
 庵さんのつけている香水は、なんというか大人っぽい。つけたばかりの匂いはすこしきついけど、だんだんと時間を経るにつれて甘くなっていくのが好きだ。それでいてにおいの強さはずっと変わらない。まるで庵さんみたい。
 などと取り留めのないことを、やはりぼんやりと考えいていると、庵さんから「」と名前を呼ばれた。急いで意識を現実に引き戻す。
「ん?」
「離れろ」
「え、あ……ごめん、いやだった?」
 庵さんから言われた言葉に、私は腕を緩めて庵さんに寄りかかっていた上半身を起こした。庵さんの後頭部に思わず謝ると、じろり、と横目で見つめられた。
(あれ、少し機嫌悪そう? やっぱり、いやだったのかな)
 嬉しさで浮ついていた心がみるみるうちに沈んでいくのがわかった。やはり、庵さんと特別な関係になれたからといって、私自身が特別になったわけではないのだろうか。その辺にいる女たちと、同じなんだろうか。
 勝手なことを想像して勝手に沈んでいく心をどうしようも出来ないでいると、庵さんが私のほうを振り返った。
「……違う」
「え」
「勝手に想像して、勝手に泣くんじゃない」
「な、泣いてなんか……」
 私が弁解しようとすると、庵さんは私の目尻を親指で擦った。その親指は少し濡れている。目からこぼれてはいなかったけれど、確かに涙は出ていたのだ。それを気付かれていたなんて、恥ずかしいったらありゃしない。勝手に意気消沈して勝手に泣くなんて、なんという面倒な女なんだ。
 その事実に、また涙が湧いてきそうになって、思わず表情をゆがめた私を見て、庵さんは眉根を寄せた。
「だから、勝手に泣くなといっただろう、バカめ」
「い、庵さん……」
「……こっちへ来い」
 庵さんはそう言うと、私が反応する前に私を抱き寄せた。私が背中から抱きつくのではなく、今度はちゃんと向かい合って抱き合った。
「い、おりさん……」
「……休憩だ」
「え?」
「少し、休憩にする」
 というと、片手でベースをつついた。もうとっくにベースを弾いてなかったのに、休憩?
 庵さんが言ったことを反芻して、庵さんはもしかして、私が抱きついたままだと何も出来ないから離れろって言ったんじゃないか、なんて勝手な考えに行き着いた。わからない、うぬぼれかもしれないけど、こんな風に抱きしめてくれるなんて、もしかしたら。
 背中と同じように広い庵さんの胸の中で、庵さんのごつごつした手が私の腰を撫でるのを感じながら、また出そうになった涙をこらえて笑った。すると、「何を笑っている、勘違いするな」という不機嫌を装った声が聞こえてきたので、私のうぬぼれは案外間違いでもないのだろうな、と思った。
「庵さん」
「……なんだ」
「好き」
 庵さんはそれには何も返さずに、ただ黙って、私のくちびるに口付けをおとした。言葉ではなにも返さないのが庵さんらしい、と思ってのどの奥で笑うと、不機嫌なくちびるが噛み付いてきた。



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