ハロウィンのいたずら



 普段は庵さん相手にいたずらをしようとか悪ふざけを言おうとか、そんな気は全く起こさない。だけど、ハロウィンの今日くらいは、庵さんにいたずらを仕掛けてもいいのではないか。いや、いたずらが目的ではないが。そういった世間の行事に興味がなさそうな庵さんにハロウィンの話題を振ること自体、少し緊張してしまうのだが、ここは勇気を出していってみよう。彼は話を聞いていないようで案外聞いてくれるし、私が何気なく言ったことを覚えていてくれるのだ。ただし、話題の内容にもよるが。
 そう思いたった私は、私の部屋で隣に座っていた庵さんを横目で見た。今は譜面に目を落としている。庵さんの曲だろうか、それともバンドのほかのメンバーが作った曲だろうか。楽器には縁のない私には、譜面を横から見るだけではわからなかった。だが、作曲中ではないようなので、今は話しかけても大丈夫だろう。別に、作曲中は話しかけてはいけないというルールはない。ただ、作曲中は話しかけてもほとんど無視される。というか、話を聞いているかもしれないが、反応を返さないだけかもしれない。
「庵さん」
 控えめに呼びかけてみる。言葉は返ってこないが、彼は一瞬だけ譜面から視線を外した。よかった、ちゃんと話を聞いてくれるみたいだ。そのことに安堵して、私は改めて息を吸い込んだ。
「トリックオアトリート」
「……なんだ?」
 庵さんは眉を寄せて私を見返した。予想通り、意味がわからない、といった様子だ。
「トリックオアトリートだよ、庵さん」
「だから、なんの話だ」
「今日は何の日か知ってる?」
「今日……?」
 怪訝そうに眉をひそめたままの庵さんは、私の部屋に置いてある卓上カレンダーにさっと視線を走らせた。そのカレンダーは、祝日以外は何も書かれていないので、十月三十一日のところには何もなかった。私も何も書き込んでいない。庵さんは記念日というものにあまりこだわらなさそうだと思って、目に付くカレンダーには何も書いていない。本当は、手帳にこっそり書き込んである。
 カレンダーの白い欄を見て、庵さんは相変わらず眉を寄せたままだった。何の日なのかわからないので、返答に困っているのかもしれない。
「今日はね、ハロウィンだよ」
「……なんだそれは」
 やはりというかなんと言うか。ハロウィンの概要をざっくりと説明すると、得心がいったのか眉間の皺が少し浅くなった。
「さっきの言葉は、お菓子をくれなきゃいたずらするぞ、って意味だよ」
「Trick or treatか。ガキか貴様は」
 私の最初の発言を英単語に当てはめて、完全に納得した様子だ。呆れたような声音だったが、私は庵さんが話を聞いてくれて、話題に乗ってくれたことが嬉しかった。
「あ、ひっどーい。確かにこのセリフは、本来は子供が言うものだけどさ」
「ふん、まあいい。菓子か……」
 というと、庵さんは数秒間視線を外した。再び眉間に皺が寄っていくのを横で見ていると、庵さんが口を開いた。
「菓子など持っておらん」
 普段より少しだけ小さくて、少しだけ苦味を含んだ声だった。私の言ったトリックオアトリートのセリフに、今自分がお菓子を持ってないか考えていたらしい。
 それがわかった瞬間、私は顔が緩むのを抑え切れなかった。この人は、こういうところがたまらない。音楽以外の人の話なんて興味ないような雰囲気を出していて、他人なんて関係ないとでも言うように常識破りの行動をするくせに。私の話を聞き流しているようで何気ない一言を覚えていたりする。今も、こんな外国の行事にかこつけたお遊びの一言に真面目に考えこんだりして。自分がお菓子なんて持ち歩いたりするはずないし、そもそもお菓子を食べないってわかっているはずなのに。私のことなんて歯牙にもかけないようなふりをして、ちゃんと話を聞いてくれるのだ。向き合ってくれるんだ。
 私が声も出さずに、しかし思いっきり笑っているものだから、隣の庵さんはむっとしたように横目で視線を送ってきた。まったく怖くないその視線を受けながら、私は首を横に振った。
「庵さんにお菓子をもらおうって魂胆じゃないよ。ただ、ちょっといたずらしてみたかったから、言ってみただけ」
「ほう……この俺にいたずらか。たいそうなことを考える女だ」
「ごめんごめん」
 と笑いながら謝っていると、庵さんはにやり、と口角を吊り上げて、私のほうへ体を向けた。なんだろう、と目を瞬かせていると、庵さんは私にこう言った。
「してみるがいい」
「え?」
「いたずらだ。できるものならやってみろ」
 その挑発的な表情に、私は頭を抱えたくなった。これは完全に後戻りできない雰囲気だ。冗談だよ、ではもうこの人は納得しないだろう。実際、私は庵さん相手に本気でいたずらできるとは思っていなかったので、ここから先のことは何も考えていない。こんな展開になると思っていなかったのだ。
 庵さんは、私がうろたえている様子を見て、それは楽しそうに笑っている。
「どうした? いたずらするんだろう、この俺に」
「え、ちょっと待っ」
「待てんな。俺の気が変わらんうちに、早くしろ」
 と、かかってこいとでも言いたげに悠然と座っている。私はがっくりと肩を落とすと、やけになって庵さんの脇腹に手を伸ばした。贅肉のない、筋肉で硬い脇腹をくすぐってみるが、庵さんの表情は余裕たっぷりの笑みから変わらない。
「……なんだ、それは」
「え、一応くすぐってみてるんだけど……あれ、くすぐったくない?」
「まったくきかんな」
「おかしいなぁ……」
 場所が悪いのかと、くすぐるポイントを変えてみても、手の動きを変えてみても、庵さんの表情は変わらない。やがて、庵さんは私のくすぐり攻撃によるものではない笑い声を上げると、私の両手をつかんだ。
「くくく……児戯だな」
「わっ」
「こんなガキの遊びよりも、色気のあるいたずらを期待していたんだがな」
「色気のある、いたずら?」
 私の両腕を引っ張って自分のほうへ引き寄せると、顎をつかんで私の顔を上げさせた。息のかかる近い距離。彼は顎をつかんでいた指を、そのまま頬へ、顎の下へ、首筋へ、胸元へとゆっくり滑らせた。私は、指の感触にぞくりと体を震わせる。
「こういうことだ」
「……っ……わ、私はそんなつもりじゃ」
「貴様も、好きだろう」
 服越しに指が体をなぞっていく。じれったくなるようなゆっくりとした動きに、つい乗せられそうになる。違う、そんなつもりでこんなことを仕掛けたのではないと、ふるふると首を振る。声を出すと、甘い声が出そうだった。
「強情め、あくまで抵抗するつもりか」
 と、庵さんは目を細めて指を止めた。ほっとして体から力を抜くが、彼はどうやら諦めたわけではなかったらしく、今度はくちびるを指でなぞられた。
「っ……庵、さん……」
「トリックオアトリート」
「あ……!」
「菓子などいらん」
 お菓子なら部屋にある。けれど、それを言う前に庵さんに拒否されてしまった。お菓子をくれという意味のセリフなのに、お菓子を拒否するとはどういうことだ。
「ん、ダメ……」

 いつの間にか天井を背にした庵さんが私を見下ろしている。抵抗できるのは口だけで、体はもう庵さんの行為を受け入れて熱を帯びてきている。庵さんは私の唯一の抵抗も封じようと、耳元で私の名を呼ぶと、息を止めた私の口にくちびるを押し付けた。少々荒っぽい手つきで服を乱されながら、口内を好き勝手荒される。ああ、これでもう抵抗できない。いたずら目的の大人を大人しくさせる方法なんて、私は知らない。


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