天化の恋煩い


 一目惚れだったと自覚したのは、いつのことだっただろうか。
 あの、月の光に照らされた横顔を見た時から。
 明るすぎる月を見上げて言い表せぬ感情に曇った顔を見た時から、始まっていたのだ。

***

 はじめは、ただどんな人なのか知りたかっただけだった。太公望の養女だというし、これから関わりが多くなるかもしれないので、早いうちに人となりを知っておきたかった。別の世界から来たということも興味を引いた。
 しかし、出会った当初は時期が悪かった。太公望や黄一族が西岐に加わったばかりで、西岐軍の整備や内政などやることが山積していた。彼女は太公望の補佐をしてかなり忙しそうだったし、天化も自身の修行や兵の調練に忙しかった。という名前と、天化より少し年上の女性ということぐらいしかわかっていない状態で数ヶ月が過ぎた。
 急速に距離が縮まったのは太公望と武成王らが北伯の説得に向かった時だった。周公旦の手伝いをし始めた彼女の顔は、日増しに暗くなっていった。仕事の内容云々というわけではなく、周りの環境が憂鬱の原因だろう。
 自分にできることといえば、ちょっと気晴らしにでも遊びに誘うくらいなもの。だが、少しでも気分転換になれればいいし、彼女のことも多少知ることができるだろう。そんな軽い気持ちで誘ったのが始まりだった。
 一緒に街に出かけることになって、わかったことがたくさんあった。
 少し年上だと思っていたけれど、実は少しの範囲ではなかったこと。異世界から来たというのは本当で、その時から歳を取ってないこと。髪も肌も綺麗で、いかにも年上の女性という感じだが、甘いものを前にした時などたまに少女のように無邪気な顔をすること。その無邪気に笑っている顔が可愛いということ。そして、

「天化」

 に名を呼ばれると、なんだか自分の名がいつもと違うものに聞こえた。自分がそれになんと返事したのか、よく覚えてない。
 それからおかしくなった。
 はぐれないようにと差し出した左手にの手が乗ると、左手の感覚だけ異常になった。周公旦に休みをもらいに行く時も手を握ったはずで、その時はこんな状態にはならなかったのに。

(なんつー小さい手さ……ていうか、指細い。ちょっとひんやりしてる)

 自分の手とはなにもかもが違う小さい手。大きさも違うし、指の長さも太さも違う。こんなに華奢だと、力を入れたら折れてしまうんじゃないか。冷静に考えるとそんな簡単に折れるわけがないのに、この時はなぜだか異様に緊張して力加減がわからなくなった。触れたところから伝ってくる肌のなめらかさが、の白い頬を想起させた。

(あの頬も、こんなに)

 ――こんなになめらかで、冷たいのだろうか。
 その日は結局、どこをどう歩いたのかよく覚えてない。ただ、彼女が話していたことはよく覚えていた。男の中に身を置く状況だから男装しているが、可愛いものも綺麗なものも好きだとか。反物や髪飾りを見ている彼女の目は楽しそうだったが、最後まで自分で手に取ったりせず見ているだけだった。

「使う機会がないから、買ってももったいないだけなんだよね」

 なるほど、そういうものか。少し残念そうにつぶやいた彼女を見て、女性らしく着飾った姿も綺麗だろうなとぼんやり思った。
 行こう、と繋いだ手を引かれて、気づいた。最初に触れた時にはひんやりしていた小さい手は、いつの間にか天化の手と同じ温度になっていた。
 同じ温度になるくらい、この手に触れていた。
 そう思った瞬間、またおかしくなった。ぴたりと足を止めてしまった天化に、から声がかかる。

「天化? どうしたの?」
「……な、なんでもないさ」

 なんでもなくなかった。また手の力加減がわからなくなって、異様に左手を意識し始めていた。強く握りすぎてないかとか、手汗はかいてないかとか。手のことだけではない。歩くのは早くないかとか、疲れてないかとか。気になり出したらきりがなかった。
 日が傾き始めた頃に、城へと戻った。部屋の前まで送ると、は天化を見上げて笑みを浮かべた。

「天化、今日はありがとう。いい気晴らしになった」
「ほ、本当さ? 俺っち、途中まで全然歩くペースとか考えてなかったから、疲れてない?」
「え、大丈夫だよ? そこまで気にしなくていいのに」
「気にするさ。あんた、普通の女の子だし」
「女の子はやめて……罪悪感がすごいから……でも、ありがとう。優しいね、天化」
「う、い、や、別に、そんなんじゃねえさ」
「ほんとに気にしなくていいよ。これでも望ちゃんとずっと旅してきたし、体力はあるほうだから」
「……ん」

 疲れてない、とは言ってない。彼女にとっては本当に大丈夫なのかもしれないが、これからは気をつけようと思った。

(これから……)

 そう、これから。この次も、またこんなふうにふたりで過ごしたい。もっとのことが知りたい。もっと色んな表情が見たい。
 立ち話をしているうちに、城内に差し込む光が橙色になっていた。朱塗りの部屋の扉がいっそう赤くなる。その光を受けて、の顔も赤く染まって見えた。

「……また、誘っていい?」

 と言うと、は少し照れたような顔をした。

「……また、誘ってくれるの?」

 ほんのりと頬が赤くなったような気がした。ずっと見ていたから、西日のせいじゃない、はず。

「あ、あんたがよければ、だけど」
「うん。また付き合ってくれると嬉しいです」
「……おう」
「じゃあ、おやすみ。また明日、天化」
「……ああ、また明日さ。おやすみ、

 扉が閉まった。閉まるまでが手を振っていた。今日一日、天化が握っていたその手を。
 気がつけば、自分の部屋まで戻ってきていた。は太公望の隣の部屋だから、そんなに離れているわけではなかった。
 音を立てて寝台に腰かける。頭の中がの顔でいっぱいだった。
 別れ際に手を振って笑っていた
 天化を優しいと言った
 また誘ってくれるの、と言った

(かわいかった。……可愛いかった)

 今日一日だけで、ずいぶん彼女のことを知ることができた。おかげで、なかなか彼女の顔が頭から離れない。彼女と過ごすことに慣れれば、こんなにどきどきすることもなくなるんだろうか。
 左手を見下ろす。
 さっきまで彼女の体温が伝わってきていたところだ。
 小さくて、細くて、柔らかくて、天化よりもちょっとひんやりしていた。
 また、次があるなら。また手に触れられる。

「……ぃよっし」

 ぐっと左手を握りしめる。
 もっと近づくためには、どんどん話すしかない。幸い、別れ際の会話できっかけは作ってある。これからだ。

***

 それから一ヶ月の後に、太公望達が西岐に帰ってきた。その間、天化はと二回出かけることに成功した。
 太公望達が帰ってきてからは、姫昌が亡くなって姫発が王になったり、軍備を整えたりとさらに忙しくなったので、しばらく誘えなかった。同じ西岐城にいるのに会えない日が続き、の部屋の方角を見ては今頃どうしているのかと気にしていた。
 そんな中、食堂でばったりと会えたのは幸運だった。近くで顔を見るのは実に一ヶ月ぶりのことだった。
 昼食の時間、ピークを過ぎた食堂にはちらほらと人がいるだけだった。はひとりで、いつも一緒にいる太公望の姿がなかった。

「あれ、も昼メシ? スースは?」
「ああ、天化。うん、私だけちょっと遅めのね」
「隣、いい?」
「どうぞどうぞ」

 これには内心ガッツポーズした。太公望はいないし、天化のほうもひとりだ。完全にふたりきりというわけではないが、ふたりで話すにはまたとないチャンスだった。
 なにを話そうかと昼食を口に放り込みながら考えていると、隣のが顔を覗き込んできた。

「なんか、こうやって話すのも久しぶりだね」

 その上目遣いにむせそうになった。なんとかこらえて口の中のものを飲み込んで、平静を装って返事をした。

「あ、ああ、あんたはここんとこ随分忙しそうだったさ」
「私はそうでもないよ。確かに休みはなかったけど。天化も、武成王の手伝いとかで忙しいんじゃないの?」
「手伝いっつっても、やることはほとんど変わんねえからなあ」
「そっか。元気そうでよかった」

 というと、彼女はスープに口をつけた。熱かったらしく、ふうふうと息を吹きかけている。
 それはこっちのセリフ、と言いかけた口を止めて、に見入った。
 久しぶりに見る彼女は、一ヶ月前と変わりない。目の下にも隈はないし、丸一日の休みがないだけで休む時間はちゃんと取れているのかもしれない。
 相変わらず男装しているけれど、見慣れるとなにも隠しきれてないことがわかる。肩は撫で肩で、柔らかい曲線を描いている。首も白くて細いし、胸もちゃんと膨らみが主張している。指先の爪は品良く整えられていて、こういうところに性格が出ていると思った。
 白い頬が、熱いスープを飲んでいるせいで少し火照っていた。くちびるも赤く色付いている。顔の横髪を食べてしまわないように耳にかき上げて、レンゲに口をつけている。

(柔らかそう……いい匂いしそう……ていうか)
「触りてえ……」
「え?」

 が天化を見返すまで、声に出ていたことにまったく気づかなかった。逆になんで急にこっちを見たんだと思った。

「なんか言った? ごめん、全然聞いてなかった」
「え……えっ? い、いや、な、なんも言ってない、さ? 聞き間違いじゃねえ?」
「ほんとに? ……なんか変だよ?」
「えっ」
「さっきから全然食べてないし、顔赤いし……もしかして熱でもあるんじゃ」

 と、言われたことまでは覚えている。心配そうに眉をひそめて天化の顔を見つめてきて、それから。
 の手のひらが、天化の額に触れていた。

「うーん……バンダナ越しじゃ、熱あるかどうかよくわかんないな」

 バンダナ越しでも触れられたのはちゃんと伝わってきていた。ああ、熱を測ったのかと、冷静に考えられる部分がほんの少し残っていた。脳の大部分は、突然のことに処理しきれずに、心と体だけがそれに反応していた。
 に触れられた衝撃で、カーッと顔が熱くなった。たぶん、傍目から見ても顔は真っ赤だった。

「天化?」
「あ、う、お、」
「天化……?」
「俺っち用事思い出した!」
「へ?」

 ここから先はもう覚えてない。呆気に取られたようなを置いて、食堂を出て、それからどうしたんだろうか。気がつけば怪訝そうな顔をした父親が目の前にいた。ああ修練場まで来たんだと思った。

「天化、そんなに息切らしてどうした?」
「……オヤジ、俺っち病気かもしんない」
「は?」

 なに言ってんだこいつ、という表情が返ってきた。当たり前だ、ここまで元気に走ってきたのだ。どう見ても病気には見えない。
 この気持ちがなんなのか。どうしてにだけこんな気持ちになるのか。人に対してこんなふうになるのは初めてで、混乱していた。思わず父親に今の出来事を話していた。
 はじめは要領を得ない様子だった父親は、天化から話を聞き出すうちに笑みを深めていった。

「なるほどなあ……天化、そりゃ病気だ。間違いねえ」
「マジで!?」
「ああ。おめえ、あの娘に惚れちまったんだよ」
「………………は?」
「今までのことよーく思い出してみろ。それが答えだ」

 今までのこと。彼女に対して思ったこと、抱いた気持ち。
 もっと知りたい。もっと近づきたい。もっと色んな表情が見たい。もっと触りたい。もっと一緒にいたい。
 なぜ、そんなふうにを思ったのか。

が好きだから……惚れちまったから)

 それがすべての答えだった。
 恋をしていたのだ、に。

***

「女はとにかく綺麗なもんを好む。綺麗なもんを贈られて悪い顔をする女はいねえ。と思う」
「なんで最後自信なくなったさ?」
「俺は賈氏一筋だったから、ほかの女のことはよく知らん。贈り物をして常に心を配り、そして押して押して押しまくる! 女は想ってくれる相手を無下にはしねえもんだ。そこを押しの一手だ!」
「参考になるのかならないのか、よくわからんアドバイスさ……」

 恋をしていたと自覚した天化は、父親から恋の指南を受けていた。なにせ、初恋に等しいのである。女性への憧れを抱く前に修行に出たので、そもそも女性というものがよくわからなかった。兄弟は男ばかり、唯一身近にいた女性は母親だけである。父は母をとても大切にしていたので、女性は優しくする対象、ということぐらいしかわからない。

(でも、確かに)

 街へ出かけた際、綺麗な織物や髪飾りなどに足を止めて見入っていた。自分には使う機会がないと言いつつ気になってしまうということは、少なくとも嫌いではないだろう。

「綺麗なもん、ねえ……」

 だが、使う機会がないものを贈られても、は困るだけだろう。天化の前では喜んでくれるかもしれないが、気を遣ってほしいわけじゃない。なにより、困らせたくない。
 頭を悩ませた。思い浮かぶのは、まだ修行に出る前に見た父と母の姿だった。母に贈り物をしていたというが、母がきらびやかなものに囲まれていたという記憶はない。母はあまり贅沢しない人で、父もそんな母の性分を見越して贈り物をしていたはずだ。じゃあ、一体なにを贈っていたか。

「あ……」

 思い出した。一度、父が母に贈っていたところを見たことがある。アレならば、も喜んでくれるかもしれない。
 父にそれを提案してみると、ばしんと背中を叩かれて太鼓判を押された。非常に痛かったが、なぜだか不思議と自信が持てるようになった。

「よし、今回は俺が金を出してやろう」
「え、な、なに言ってるさ!」
「おめえ仙道だろうが。金持ってねえだろ」
「う……そりゃ、そうだけどさ」
「遠慮すんな、今回だけだからな。息子の初恋成就のための軍資金を援助してやるって言ってんだよ。素直に受け取れ」



(とかなんとか言ってたけど、やっぱそういうわけにはいかねぇよなあ……)

 結局、父親からの軍資金は受け取ってしまったが、使う気はなかった。
 買わなくても、探せば見つけられるものではある。どうしても自力で見つからなかった場合、最終手段でこの軍資金を使って店で買うことにした。
 安く済ませたいわけではない。自分の足で探し出したもので、に喜んでもらいたいと思ったのだ。買ってきたと言って渡すよりも、そっちのほうが格好もつくだろうし。

(しかし、どこ探すかねえ)

 豊邑の街中にはあるだろうが、あっても人の家のものぐらいだ。そんなものを取るわけにはいかない。
 では街の外にあるかというと、ない。西岐への道中を思い返してみても、ない。探せばあるかもしれないが、範囲が広すぎる。探していたらきりがない。
 早くも自力では無理に近いのではないだろうかと思い始めた。贈ろうと思いついた時はなんとかなるだろうと軽く考えていたが、いざ探し始めると思いのほか難しかった。

(つっても、西岐以外じゃ俺っちの知ってるとこなんて……あ)

 そうだ。ひとつだけ確実な場所がある。日帰りで行って帰って来れる場所で、天化の探しているものがあるところが。

***

 天化が西岐城に戻ってくる頃には、日が赤く染まっていた。

(思ったより時間かかっちまったさ)

 行って帰って来るだけならもう少し早かったかもしれないが、現物を前にああでもないこうでもないと悩んでいたのだ。早くしないと、が太公望とともに夕食に行ってしまうかもしれない。その前になんとしても渡したかった。
 の部屋の前にたどり着いた。走ったせいで少し乱れた息を整えると、扉を叩こうとした。したのだが、今更ながらに色々気になってきてしまって、叩けなかった。
 は今この部屋にいるのだろうか。太公望の使いでいないかもしれないし、部屋にいてもひとりとは限らない。できればふたりきりの時に渡したい。
 あとは、迷惑にならないか、とか、これが嫌いだったらどうしよう、とか。
 色々気になってしまって、部屋の前で拳を握ったまま立ち尽くしていた。

『女は想ってくれる相手を無下にはしねえもんだ』

 父の言葉が思い浮かんだ。

(押しの一手……そうさ、やる前から悩んでるなんてらしくねえ)

 喜んでくれるかどうかはわからない。けれど、少なくともは天化を嫌ってない。熱があるんじゃないかと気にかけてくれるぐらいだから、少しくらいは望みがあるはずだ。だったら、もう足踏みしていたってしょうがない。押しの一手、当たって砕けるくらいの勢いで行くのが黄天化らしいのではないか。

、いるさ?」

 心を決めて、扉を叩いた。いざ行動に移してみたら、感じていた不安はなりを潜めた。

「天化?」
「今、入っても大丈夫さ?」
「うん、どうぞ」

 よかった、部屋にいたようだ。扉を開けると、部屋の中にはひとりだった。絶好のチャンスである。天化はの目の前まで行くと、手の中のものを差し出した。

「これ……花? ……私に?」
「ん」
「どうしたの、これ? この辺には花なんて咲いてないのに」
「崑崙まで行ってきたんさ」
「えっ、わざわざ……!?」

 崑崙に行けば、霊薬の材料とするため、花を栽培している所がある。そこで花を分けてもらおうと思いつき、楊ゼンに哮天犬を貸してもらって崑崙まで行ってきたというわけだ。
 花束、というほどでもないが。赤や黄色の花と、それを飾るかすみ草。これを見たの気分が少しでも明るくなるように、に似合うような可愛らしい花をなるべく選んできたつもりだ。
 は天化から渡された花をまじまじと見ている。驚いた表情からなかなか変わらなかったので一瞬不安になった。
 けれど、はやがて、ゆっくりと花がほころぶように笑った。

「すごく、嬉しい……ありがとう、天化」

 白い頬に濃い色の花が映えているのを見て、やはり自分で選んできてよかったと思った。
 自分で選んだ花が彼女を笑顔にしたのだと思うと、幸せな気持ちが心の底から湧いてきた。贈られた人の喜んだ顔がこんなにも嬉しいものだったなんて。

「よかったさ、喜んでもらえて」

 喜んでもらえてほっとしたのと嬉しい気持ち、それと、彼女の花のような笑顔が見られて幸せな気持ち。色んな感情が合わさって、胸がいっぱいだった。

「あんたはやっぱり、笑ってる顔が一番可愛い」
「……!」

 だから、心の内が口からストレートに漏れ出していた。

「え、あ、あの……天化、」
「え? ……あ」

 の頬が赤く染まっていく様を見て、やっぱり可愛い、なんて思っていたのだが。の戸惑いまくりの声に、自分がなにを言ったのかを思い出した。天化もすぐに顔が真っ赤になった。

「う、あ、えっと、お、俺っち、そろそろ部屋に戻るさ!」
「え、あ、は、はい」

 ものすごく不自然な流れだったが、この時は天化ももふたりして混乱していた。こんなところを父親が見たらなんて言うか。けれど、今はこれが精一杯だ。慣れればもっと自然に押せ押せの口説き方ができるのかもしれないが、今日恋心を自覚したばかりの身には、これで及第点としてほしい。
 扉を開けて部屋を出ようとすると、が声をかけてきた。

「天化、あの、本当にありがとう。お花、大切にする。その、さっきのも……お世辞でも、嬉しかった」

 さっきのとは。天化が口を滑らせたことに対してだ。お世辞でも、という表現がいかにも彼女らしかった。が、天化はそれがちょっと気に食わなかった。

「……だから、お世辞なんか言ってねえよ。俺っちは、本気で、あんたの笑った顔が……」

 お世辞でそんなことを言う男だと思われたくなかった。また本心がそのままこぼれそうになって、今までのことを思い出して口をつぐんだ。

『押しの一手だ!』

 けれど、父親の力強い声が天化の背中を押した。
 もう、いいか。だってたぶん嫌がってない。嫌がってなければ、もうあからさまにわかりやすくてもいいか。傍から見れば格好悪いかもしれないけれど、そんなことよりも、ストレートに気持ちを伝えたい。嘘偽りなくが好きなんだと、本気で惚れているのだと。

「俺っちは、本気であんたの笑った顔が好きなんさ」
「て、天化……!」
「わかった?」
「……は、はい……」
「ん」

 が頬を赤く染めながら頷いたのを見届けて、天化は部屋を出た。出てから、とんでもないことを言ったのではないかと、顔から火が出そうになった。壁に両手をついて項垂れ、落ち着くために息を長く吐いた。
 でも、恥ずかしいだけで、後悔はない。



 の笑った顔だけじゃなくて、全部が好きだと言えるのは、いつだろうか。
 の身も心も欲しいと。の一番の男になりたいと伝えられるのは。
 少なくとも、こんなことで浮き足立っているようではまだまだ先は長い。もっとどっしりと構えてを口説けるように、精神面の修行に励まなければ。
 息を大きく吸い込むと、天化は勢いよく顔を上げた。花を持っていたせいで少々青臭い手を、ぐっと握り締める。

「ぃよっし!」

 今日、この気持ちを自覚してようやくスタート地点に立った。すべてはこれからだ。明日からまた、彼女との距離をどう詰めるかを考えよう。

(明日……また明日、会えるといいさ)

 日中はそれぞれのやることがあったり、朝夕の食事は太公望が一緒にいたりするが、昼食ならば、今日のように会えるかもしれない。もう、今日のように逃げるということもない。

(はやく会いたいさ、

 ついさっきまで会っていたというのに、のことを考えていたらもう会いたくなってきた。胸が苦しくて、じんわりと熱くなってくる。
 これが恋い焦がれるということなのかと、初めて経験する切ない痛みを感じて、天化はまた拳を握り絞めた。

***

 それから、天化はに花を贈り続けた。数を確保することが難しかったので数輪ずつ贈ることになったが、はその都度笑顔を見せてくれた。恋人になってからも、それは続いていた。
 不思議なことに、のそばでは花は枯れることなく、いつまでも咲いていた。の部屋には花が増えていく一方だった。

「天化がくれた花、枯れたら嫌だなって思ってたから、無意識に宝貝で枯れないようにしてたのかも」

 後になってこのことを思い返したが言った。が戦いの中で西岐から離れていた時には一斉に枯れてしまったから、そうなのかもしれないと思った。
 は、花を見る度に顔を綻ばせていた。贈られた花に囲まれて笑っている彼女を見て、天化は改めてこう思うのだった。

「やっぱり、あんたは笑った顔が一番可愛いさ」

 

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