楊ゼン、色々回想する

※拍手コメントより「楊ゼンが夢主を餌付けした時の詳しい話」
※楊ゼン視点の太公望の片想い


 朝歌に向けて行軍中のことである。
 あたりはすでに日が暮れており、仙道も兵士たちも夕食を終えて就寝までの時間を各々に過ごしている。楊ゼンは、食後にが入れてくれたお茶を飲みながら一服しているところであった。
 いつもなら太公望やほかの仲間たちも同席しているのだが、今は楊ゼンとのふたりしかいない。太公望は南宮カツに連れられてどこかへと行った。天化は天祥に付き合っていてこの場にはいない。

「うん、やっぱりちゃんが入れてくれたお茶はおいしい」
「そ、そうかな? ありがとう。望ちゃんに出してるうちに上達したのかな」

 照れたように頬を掻く。仙道のように外見が変わらない彼女を見ていると、と出会ってから十年近く経とうとしていることを失念してしまいそうになる。

***

 あれは、太公望をテストしに一行の前に現れたときのことである。朝歌でのタイ盆事件の後、楊ゼンがちょっと目を離していた間にという女が太公望に保護されていた。様子をうかがってみると、なんと異世界から妲己に連れて来られたという。にわかには信じがたい話だし、あの妲己の名前を出して太公望の前に現れたことも不審な点だった。楊ゼンも太公望ですらも、が何者なのかをはかりかねていた。
 ただ、荒唐無稽ないきさつを除けば、本人は至って普通だった。時折やや世間ずれした発言をするところは、この世界について知らなかった、で説明がついた。太公望に対してまったく警戒心がないことも、保護してくれた相手ということで信頼していたのだろう。その点は、楊ゼンよりもむしろ太公望本人のほうが訝しんでいたような気がする。
 楊ゼンは、観察するうちに徐々にが異世界から来たという話を信じつつあった。彼女の様子からうかがえることが、異世界から来たという証拠、とまではいかないものの、説得力を持っているように思えたのだ。
 見たことがない珍しい服装、平和ボケといっても過言ではない警戒心の薄さ、世間に対する知識のなさ、そして、隙あらば鳴りそうになる胃袋。
 彼女は鳴き出しそうになる腹の虫を必死で抑えているつもりのようだが、遠くから見ている楊ゼンからすれば、常にお腹を空かせているのは一目瞭然だった。おそらく、彼女が元いた世界はこの世界よりはるかに食料事情に恵まれていたのだ。戦争もない、犯罪に遭うことも少なく、飢えることがない世界。そんなところから来たと思うと、納得のいくことばかりだった。
 ともにいる太公望は仙道である。彼が普通の仙道より食い意地が張っているといえども、彼女からすれば少食だろう。しかも主に食べるものは野菜か果物。

(彼女の顔色がだんだん冴えなくなってきているのは、僕の気のせいじゃないような……)

 常に空腹に耐えているとすれば、それも当然だ。楊ゼンは見守るうちにだんだんとに同情的になっていった。その頃には、太公望もに対して疑問を残しつつも緊張を解いたようだった。
 いよいよ楊ゼンが太公望に接触するというところで、にお土産としてあんまんを持っていったのは、純粋にかわいそうだと思ったからだった。いたって普通の女性が、いきなり不穏な空気渦巻く世界に連れて来られて、しかもひもじい思いをしているとあれば、誰だって手を差し伸べたくなるはずだ。
 太公望が楊ゼンの態度に怒り出し、臨潼関へ行ってしまった時、楊ゼンは初めてと言葉を交わした。

「君がちゃんだね。僕は楊ゼン……て、君も聞いてたか」
「あ、はい。あの、望ちゃんの後をつけていたってことは、私のことも……」
「まあ、大体の事情はわかってるよ。君については、太公望師叔の判断に従うつもりだよ」
「はい」

 暗にのことを疑ったりはしていないと伝えると、は頷いた。楊ゼンに対してもそれほど警戒した様子がないことが気になったが、それよりも太公望の行動に驚かないことのほうが引っかかった。

「……君は、不安じゃないのか?」

 楊ゼンの問いに、はぽかんとした顔をした。自分の態度がおかしいと思ってなかったという様子だ。

「不安……? なにがですか?」
「だって、太公望師叔がなにをするかわからないだろう?」
「うーん……望ちゃんがなにをするかで不安になったことはない、かなあ……無一文になった時は、さすがにどうするんだろうとは思いましたけど。でも今は不安になる要素なんてありました?」

 逆に訊かれてしまった。
 どうしてそんなにあの太公望を信用できるのだろう。まだ会ってそこそこしか経ってないのに、あの太公望のどこに信用を置けると思ったのか。

「楊ゼンさんは、望ちゃんの後をずっとつけていたんでしょ? だったら、楊ゼンさんもわかってるんじゃないですか?」
「……なにを?」
「望ちゃんは、ひとが傷つかない方法を選ぶって」

 楊ゼンの疑念を読み取ったかのようにが言った。
 確かに、人間が傷ついたり犠牲になったりする方法だけは取らないことは、今までの太公望を見ればわかる。楊ゼンに嫌がらせしてやるという発言もあってなにをしでかすかわからないが、朝歌からの難民を見捨てるはずがない、ということだけははっきりしている。
 は、そんな太公望を無条件に信じているのだ。なにをするかわからないが――それとも知っているのか――手段がどうであれ、太公望は民を守ると。
 これ以上太公望についてと話していても、いつまでも平行線をたどるような気がした。太公望に対する信頼が、今の楊ゼンにはないのだ。前提が違う人間と話をしても不毛なだけだ。楊ゼンは話を変えることにした。
 そういえば、にあげようと思っていたあんまんをまだ渡していなかった。すっかり冷めてしまったが、まだ固くなっていないはずだ。
 これあげる、とあんまんを差し出した時のの顔は、今でもよく覚えている。

「わっ、あんまんだー! 楊ゼンさん大好き!」

 今まで年相応の落ち着いた表情を崩さなかったが、少女のように無邪気に笑った。楊ゼンからあんまんの袋を受け取ると、嬉しそうにほおばり始めた。表情は今まで見た中で一番輝いていたし、緩みきっていた。

(……なるほど。これは、師叔が毒気を抜かれるのも無理はない)

 先ほど見せた太公望への無条件の信頼といい、少し打ち解けてきたら見せるようになる無防備な表情といい。そんなものを見せられては、が何者かと疑っていても思わず守りたくなってしまう。慣れてきた頃に見せる隙に、逆に危なっかしさを覚えるのだ。

「あんまんのことは師叔には内緒だからね」
「はい。ありがとう、楊ゼンさん。ごちそうさまでした」
「うん、お粗末さまでした」

 満面の笑みで頷くの頭を撫でると、臨潼関のほうから鋭い視線が向けられた……ような気がした。もうすでにばれているようだ。

***

 思えば、あの頃から太公望はに対して少し過保護な面があった気がする。先日楊ゼンが彼をせっついたことで、への想いをようやく自覚した太公望だが、想い自体はもっとずっと前から抱いていたと楊ゼンは踏んでいる。

(だって、明らかにほかの仲間たちとは違う)

 殷の打倒や封神計画のために集めた仲間と違い、は太公望個人が保護した存在だ。常にそばにおいて守り、太公望の歩む道をずっと見てきた彼女に触れるうちに、だんだんと心を寄せていったのだろう。

ちゃんのほうは、太公望師叔をどう思ってるんだろう)

 お茶をすすってをぼんやり見ていると、ふたりのいるテントに足音が近づいてきた。この足音は、おそらく太公望だろう。

「ふう、やっと終わった……、茶を入れておくれ」
「望ちゃん、おかえりなさい」

 楊ゼンの予想通り、太公望が背を丸めながらテントに入ってきた。南宮カツの用事がどんなものだったのかはわからないが、太公望の様子から察するにどうせ仕事だ。

「ん、じゃあちょっとお湯もらってくるね」
「うむ」

 がテントから出ていったのを見送ると、太公望はよぼよぼと椅子に座った。

「太公望師叔、お疲れ様です」
「む、楊ゼンひとりか?」
「ええ。今日はたまたま僕とちゃんのふたりでしたよ」

 と言うと、太公望の目がにわかに厳しくなった。

「……おぬしと、が、今まで、ふたりきり、だと?」
「おや、いけませんか?」
「わしをせっついたのはどこの誰だ」
「僕ですね」
「おぬしなあ……」

 はあ、と隠しもせずにため息をつくと、太公望は頬杖をついて楊ゼンをにらんだ。

「人があくせくと働いておったというのに、おぬしはのんびりと茶を飲んでいたとはのう……まったく、だ。仮にもほかの男とふたりきりになるなど……」

 などと嫉妬丸出しの愚痴をぶつぶつと並べている。とふたりきりになったのは本当に偶然だったのだが、こう言われるとそれなりの優越感を覚える。太公望には苦い思いをさせられることが多いゆえに、こちらが太公望をからかう側になるチャンスは見逃せない。

「ええ、まあ僕はちゃんの大好きを得た男ですからね。ちゃんも特別僕には安心しているんじゃないですか」
「なっ……! な、なん、なにを、そんな昔のことを! わしだってから大好きと言われたことぐらいあるのだぞ! おぬしだけの特権ではないわ!」
「ええ、でも僕はたぶん、ちゃんがこの世界に来てから最速で大好きと言われた男ですよ。師叔だって、あの頃にはまだ言われたことなかったでしょう?」
「ぐっ……! う、うるさい!」

 太公望が言葉に詰まったところで、がテントに戻ってきた。

「ふたりとも、どうしたの? 声、外にまで聞こえてたよ」
「な、なんでもない!」
「?」

 慌ててごまかそうとする太公望の態度に、が首をかしげる。楊ゼンは笑いをこらえつつ立ち上がると、のそばへと寄った。途端に険しい視線がもうひとりの男から飛んでくる。

「師叔、僕たちが仲良くお茶してたからやきもち焼いてるんだよ。僕は退散するから、ちゃん、師叔の機嫌を取っておいてくれないかな?」
「え、うん、いいけど……」

 楊ゼンがに耳打ちすると、太公望がさらににらんできた。にちょっとでも近づくとこれである。想いを自覚してから判定がますます厳しくなった。

「では、僕は一足先に休ませてもらいます」
「う、うむ」
「楊ゼンさん、おやすみなさい」

 とふたりきりになるとわかって緊張し始めた太公望と、まったくいつも通りのを尻目にテントを後にする。
 いつも通り、は太公望を異性として意識していない。大切に思っていることはわかるが、それは異性愛ではない。愛を向ける相手はすでに別にいる。
 思い返せば、まだのことが気になっていると気づいていなかった天化の背中を押したのは楊ゼンだった……ような気がする。天化にのことを教えてやった後も彼が自覚した様子はなかったから、楊ゼンが直接せっついたということにはならないだろうが。

(うーん……僕、もしかして余計なことをしているのかも)

 太公望があまりにも自分の気持ちに鈍かったので、じれったくなって思わず背中を蹴飛ばしてしまった。それが太公望にとって、にとってよいことだったのか。恋人がいる相手を思い続けるのは苦しいことだ。

(師叔には恨まれるかもしれない。けど、僕は……ちゃんには、太公望師叔の隣にいてもらいたい)

 封神計画が始まってから一度も立ち止まることなく、我が身を顧みることなく進んでいる太公望。その彼を見つめる存在は、であってほしい。
 これは、楊ゼンのわがままだ。太公望に、個としての幸せを見つけてほしいというわがまま。
 天化という恋人がいるになにを求めているのか。太公望に苦しみを与えるだけではないか。その考えを押しのけて、このわがままが楊ゼンの中で通ったのだ。
 いつか、封神計画が終わる日が来た時。
 太公望が、立ち止まって振り返ることができる日が来る、その時に。
 彼の隣に寄り添う存在が、であってほしい。

***

 とふたりきりにされてしまった太公望は、楊ゼンへの怒りのやり場を失った。

(まったく、なにを考えておるのだあやつめ)

 むかむかとやり場のない感情を貧乏ゆすりで紛らわせていると、卓の上にお茶が置かれた。

「はい、どうぞ。お仕事お疲れ様、望ちゃん」
「う……うむ、すまんのう」

 どういたしまして、と笑みを浮かべるを見て、心臓が弾んだ。むかむかを押しのけて嬉しさが心を占める。
 はお茶を入れ終わってもテントから出ようとはしなかった。太公望の隣に座って、自分の分の茶を飲んでいる。その様子に嬉しさを感じつつも、先ほどの楊ゼンの勝ち誇った顔が思い浮かんできて、再び嫉妬心が湧いてきた。

「……おぬしの大好きな楊ゼンはもうおらぬぞ。おぬしも、もう休んだらどうだ」
「え?」

 楊ゼンは単に太公望をからかってきただけだとわかっているのだが、それでものことで楊ゼンに優越感を持たれるのは嫌だった。は誰よりも自分が一番最初に見つけたのだと、彼女のことは自分が一番分かっているのだと思っていたかった。には天化という存在がいるとわかっているのに、そう思いたがる心を自分でもどうしようもできなかった。

「どうしたの突然?」
「……おぬし、楊ゼンに出会った頃にそう言っておったではないか」
「そうだっけ……? 望ちゃんに言った時のことなら覚えてるけど」

 どきりとした。太公望もよく覚えている。魔家四将戦後、宝貝を使って動けなくなったをおんぶしてやった時のことだ。はあんなに眠そうだったのに、楊ゼンに言ったことよりもそっちのほうを覚えているというのか。

「だって、あの時望ちゃんだって怪我してたのに私をおんぶして西岐城まで連れていってくれたでしょ。眠かったけど、覚えてるよ。望ちゃんが私を保護してくれて、本当によかったなって改めて思ったし」
「……?」
「この世界に来たばっかりの私を保護してくれたのが望ちゃんじゃなかったら、もっとつらかっただろうし、たぶんすぐ嫌になってたと思う。あの頃、本当はすごく心細くて淋しくて、これからどうなるのか不安で……でも、そばにいてくれたのが望ちゃんだから、ここまで来れたんだよ」

 は太公望の腕に体を寄せると、目を閉じた。

「ありがとう、望ちゃん。すごく感謝してる。……大好きだよ」
「――! な、う…………」

 心臓が早鐘を打ち始めて、一気に顔が、体が熱くなった。
 は決してそういう意味で言っているのではない。太公望がいじけているから思っていることを言葉にしただけである。そうとわかっているのに、勝手にドキドキしてしまう。
 楊ゼンに言ったことは覚えてないのに太公望に言ったことは覚えていたこととか、そばにいてくれてよかったと言ってくれたこととか。好きな女にそう言われて喜ばないはずがない。
 には好いた男がいる。そうとわかっていても、愛しく思う心を止められない。この時間が続けばいいのにと思う心を止められない。

「……わしもだ。おぬしがいて、本当によかった」

 ――わしも、おぬしが好きだ。

 後に続く言葉は胸にしまっておいた。それを口にすると、この時間が壊れてしまう。を困らせてしまう。
 言葉の代わりに、の肩に手を回す。そっとを抱き寄せると、太公望の腕に抗うことなくが体を預けてくる。
 いつまでもこうしていたい。離したくない。
 けれど、それが叶わない関係だ。こんなに近くにいるのに。こんなに心を通わせているのに――
 太公望に身を寄せているの安心しきった顔を見て、との間にある信頼関係を嬉しく思いつつも、秘めた思いで切なくなってしまう太公望だった。

 
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