太公望、思い悩む その2


 ぴぴぴ。音を出した太乙印の体温計を腋から取り出したは、表示された体温を読み上げた。

「さんじゅうはちどさんぶ……」
「うむ、高熱だな」

 太公望は、襟元を直したを寝かせると、布団を首の下までかけてやった。手袋を脱いで、寝台の横につけた卓上にある桶で手巾を絞る。の額に手巾を乗せると、気持ちよさげに目を細めた。

「風邪……なのかなあ」
「うーむ、扁桃腺は腫れておらんし鼻炎でもない、腹も下してない。風邪とは言いきれんのう。専門家ではないので断言はできんが」

 が熱を出した。先に言った通り、熱だけが出て、寒気や関節の痛みもなく風邪の諸症状もない状態だ。熱があること以外、体は普通に近い。
 太公望が思うに、過労だ。は天化が封神されてから戦後の処理等の雑務に追われていたのに、夜は夜であまり眠れていないのだ。食欲もあるとは言い難い様子だった。蓄積された諸々が、高熱という形で表に出てきたのだと思っている。

「望ちゃん……仕事は、いいの?」

 が布団からちょこんと顔を出して聞いてきた。真っ赤な顔と潤んだ瞳が可愛くて、思わずどきりとした。動揺が表れないように表情筋を駆使して、太公望は頷いた。

「気にせずともよい。戦争は終わったのだから、わしら仙道の仕事はあまりないのだよ」

 太公望は朝から彼女に付き添っている。太公望の前では、というか皆の前では気丈に振舞っているが、愛した男を失って平気なはずがないのだ。その喪失の痛みは、太公望自身がよくわかっているつもりだ。だから、せめて今日だけでも彼女のそばにいてやりたいと思ったのだ。

「そっか。でも、ずっとついててくれなくてもいいからね? やることがあるならそっちのほうを優先して……」
「ダアホ、病人が気を遣うでない。わしがいいと言ったらいいのだ。おぬしの看病ならわし以上の適任などおるまい」
「望ちゃん……ありがとう」
「おぬしの看病ならサボっているなどと言われんだろうからのう!」
「んもう、望ちゃんたら」

 呆れ半分に笑うには、太公望がわざとこう言っているのだと筒抜けだろう。こういったやり取りの積み重ねが何年もあるのだ。久しぶりにふたりきりで交わす会話で出会った頃を思い出して、切なくなった。

……)

 への想いを自覚してから、何度も思ったことが頭をもたげてくる。
 天化という男を愛する前の時間が続けば――天化に出会わなければ、は自分を愛したのではないか。
 を自分のものにできたのではないかと。

(いや……そうとは限らぬ。過去の仮定など無意味だ)

 不毛な考えを首を振って打ち切ると、太公望は立ち上がった。そろそろ雲中子に作らせた薬が出来上がっている頃だ。昼時でもあるし、昼食と薬をもらってこよう。

「さて、わしはおぬしの昼食と薬をもらってくる。大人しく寝ておるのだぞ。風邪ではないっぽいからといって歩き回ってはならんからな」
「はーい、師叔」
「むう……」
(かわい子ぶりおって、こやつめ……)

 おどけたように師叔呼びしてくるを横目に、太公望はの部屋を出た。正直言うとめちゃくちゃ可愛い。惚れた欲目だと言われようと可愛いものは可愛い。
 加えて、今は熱のせいで真っ赤な顔と潤んだ瞳。可愛いだけでなくて男の部分を刺激してくるのだ。子供の頃から修行に入って早何十年、枯れたとばかり思っていた己にも反応するものが残っていたのだ。残っていたというか蘇ったというか。
 なんにせよ、今日は心置きなくのそばにいられる。遠慮も必要ないし、誰も咎めるものもいない。
 勝手に緩んでしまう顔をなんとか引き締めて広間へ行くと、そこに雲中子はいなかった。代わりに、楊ゼンがいた。

「ああ、太公望師叔。どうですか、ちゃんの具合は」
「風邪ではないな。おそらく、心労から来た熱であろう」
「そうですか、やはり……」
「ということで、わしは今日一日の看病だ。面倒ごとを持ってくるでないぞ」
「はいはい。わざわざ言われなくても、せっかくのふたりきりの時間を邪魔したりしませんよ」
「うむ。それより、雲中子を見なかったか? が飲む薬を作らせていたのだが」
「ああ、それならもうできています。僕が預かっていますよ。はいこれ」

 というと、脇に置いていた膳を差し出してきた。お粥と水が入ったコップ、それと丸薬が入った小瓶が載っている。

「おお、仕事が早い!」
「毎食後にひとつ飲むように、とのことです」
「……一応聞くが、変なもんは入っておらんだろうな」

 ふと心配になって聞いてみる。あの変人のやることだ。なにが起こるかわからない。

「調合の現場にいたわけでもないのに、僕が知るわけないでしょう」

 ため息を返された。
 しかし、なにかを思いついたのか、楊ゼンは珍しく揶揄するような表情になった。

「ちなみに師叔、変なものとは例えばどのようなものですか?」
「む? た、例えば?」
「媚薬とか?」
「びっ……!? なにを言うておるのだおぬしは!」

 動揺のあまり膳を落としそうになった。楊ゼンは含み笑いを崩さずに、さらに追い打ちをかけてくる。

「だってほら、昔から汗をかくと早く風邪が治るって言うじゃないですか。どうですか、ちゃんの弱った姿。正直可愛かったんじゃないですか?」
「ななななにを馬鹿なことを」

 図星だった。

「それ、冷めないうちに早く持っていってあげてくださいね。ちゃんと師叔がふうふうして食べさせてあげるんですよ。熱々に作ってもらったので」
「なっ……! 楊ゼン!」
「あ、食事が終わったころに膳を取りに行きますね。その時にちゃんの体を拭くお湯を持っていくので、ちゃんと師叔が背中を拭いてあげてくださいね」

 というと、楊ゼンはひらひらと手を振った。お粥もお湯も元々用意しようと楊ゼンが考えていたものだと思うが、こんなふうに性質の悪い絡み方をされた後では変に勘ぐってしまう。だがまあ、確かに食事が冷めないうちに持っていくのは当然だし、熱のせいで汗もかいているだろうし、まあ納得はできる。太公望が食べさせてあげたり拭いてあげるかどうかは別として。

「おぬし……後で覚えておれよ」

 苦し紛れに楊ゼンをにらむ。楊ゼンはいつもと立場が逆転して面白いのか、太公望の険しい視線にも余裕の笑みだ。

「あ、あと今日ちゃんの部屋には誰も近づかないように皆に言っておきますから、安心してください師叔」
「や、やかましい! 余計な気を回すでないわ!」

 両手がふさがっていなければ打神鞭で制裁を下しているところだ。人が反抗できないと思って好き放題からかってくる。
 これ以上絡まれてはたまらないし、食事も冷めてしまう。太公望は逃げるように広間を後にした。

(楊ゼンめ、あんな性格だったか?)

 からかってくるのは完全に普段の仕返しだろうが、太公望との間を取り持つようなことをしてくるのは妙だ。確かに楊ゼンがけしかけなければ、太公望が恋を自覚することもなかったが。
 楊ゼンとて、今のがどんな心境なのかわかっているはずだ。の心境も太公望の心の内も察して――だからだろうか。を慰めるのは太公望の役目だと、そう考えたのかもしれない。

が天化の死後、初めて泣き顔を見せたのは楊ゼンだというのに)

 ちくりと胸を刺すような痛みが走った。
 いまだに、そのことを考えただけで嫉妬心が湧く。楊ゼンにはに対する気持ちはないと、十分わかっているのに。わかっていても嫉妬してしまうのだから、恋というものは本当に厄介だ。
 の部屋についたので、頭を振って気持ちを切り替えた。
 は部屋を出た時と同じ状態だった。言いつけ通り、おとなしく横になっていたようだ。眠ってはいなかったらしく、太公望が部屋に入るとすぐに目を開けた。

「起きておったのか」
「うん……熱のせいなのかな、頭痛くて」
「そうか……安心せい、ちゃんと薬をもらってきたから、すぐに熱も下がる。仙人の薬はよく効くのだぞ」
「うん、ありがとう」

 太公望が膳を卓に置いて椅子に座ると、も身を起こした。お粥が入った器はまだ熱い。

『ちゃんと師叔がふうふうして食べさせてあげるんですよ』

 楊ゼンの涼やかな声が脳内に響いた。
 いや食べさせるって。幼児でもあるまいし、そんなことを提案したところでは受け入れるのか。でもまあ確かに器は熱いし、は猫舌だし。病人にいちいちふうふうさせるのも看病している側としては、まあちょっと見過ごせないし。
 などと一瞬のうちに脳内で激しく言い訳すると、太公望はレンゲを取った。

「し、仕方ないのう〜、こんなに粥が熱くては食べるのも大変だろうし? わしが特別に食べさせてやろう」
「え、いや別にそこまでしてもらわなくても」
「熱いのだ! 皿を素手で持つと火傷しかねん熱さなのだ!」
「そ、そんなに熱いの? うーん……なら、うん、お願いします」

 太公望の勢いに押される形でが頷いた。恥ずかしいのか、ちょっと居心地悪そうに布団の端をいじっている。
 内心ものすごくほっとしながら、レンゲで粥をすくう。ふうふうと息を吹きかけて、冷め具合を見るためにひとくち食べる。

「うむ、これぐらいならおぬしも問題ないだろう。ほれ、あ、あーん……」
「なんかちょっと動揺してない?」
「な、なぜ動揺する必要があるのだ、ほれ、はようせい」

 目聡いの言をかわすと、ずいっとレンゲを差し出した。は怪訝そうにしながらも、レンゲをぱくっと口に入れた。

(かっ……! 思ったより、心臓に悪いぞ、これは……)

 動揺を悟られないように、表情筋を総動員する。手ずからものを食べさせるという行為が、こんなにもどきどきするものだったなんて。庇護欲を掻き立てられてしょうがない。

「ど、どうだ?」
「ん、ちょうどいいよ、ありがとう望ちゃん」
「う、うむ……」

 少なめに量を調節された粥を、は完食した。太公望がいちいちあーんをして食べさせたのでかなり時間がかかってしまい、満腹になったようだ。風邪ではないから食欲不振ではないらしい。
 ただ、それでも元気だった頃から比べると少食になった。
 食後に薬を飲み終わったタイミングで、部屋の扉が叩かれた。楊ゼンだ。
 太公望が空になった膳を持って扉を開けると、湯が入った桶を持った楊ゼンが立っていた。まさか本当に持ってくるとは。

「よかった、ちゃんと全部食べてくれたんですね」
「うむ。まあ、薬を飲んで眠れば回復するであろう」
「それは僥倖。はいこれ、お湯。ちゃんと師叔が」
「おぬし、それしか言うことないんかい」
「ちょっと熱めにしてありますから」

 楊ゼンが言いたい台詞を先回りして言わせないようにしたのに、予想を上回ることを言われて絶句した。楊ゼンが含ませた意味を察して、さすがに呆れてしまった。
 楊ゼンは、太公望に文句を言われる前にそそくさと退散した。に悟られないように小さく息を吐いて、の元へと戻る。

「今の、楊ゼンさん?」
「ああ、おぬしの容態を気にしておったぞ。休む前に、体を拭けとのことだ」
「そっか……楊ゼンさんもそんなに気を遣ってくれたなんて、後で御礼言わなきゃな」

 普通の気遣いだけならともかく、ほかのいらん気も回しすぎているのだが。
 太公望は言おうか言うまいか悩んだ末、結局口を開いた。

「……、わしが、背中を拭いてやる」
「え?」
「手が届かんだろう」
「う、そう、だけど、でも……さ、さすがに恥ずかしい……」

 理性がぐらっときた。熱で赤い顔と潤んで垂れ下がった目元で恥ずかしがるは、欲目で見てすごく可愛かった。少し寝乱れた寝間着と髪も、そんな姿を見られるのは近しい自分だけなのだと思わせてぐっとくるものがあった。

「な、なにを恥ずかしがっておる。わしとおぬしの間に、今更どんな間違いが起こるというのだ」

 説得のためとはいえ、自分で言っていて悲しくなった。の背中を拭きたいがあまりに、大事ななにかを犠牲にしている気がする。

「うーん、まあ、そっか、そうだよね」

 そこであっさり肯定されるのも悲しかった。

「じゃあ、お願い、します……」

 というと、は太公望に背を向けて、寝間着の腰紐を解いた。しゅる、という布ずれの音が、やけに艶っぽく聞こえたと思うと、寝間着が肩から落ちた。
 目前に晒された白い背中を、思わず食い入るように見つめてしまう。が恥ずかしそうな声を上げるまで、目を離せずにいた。

「ぼ、望ちゃん……」
「す、すまぬ。今、拭いてやろう」

 慌てて手袋を外し、手巾をお湯に浸した。楊ゼンが言った通り、少し熱い。
 絞った手巾を広げ、の肩に手巾越しに触れた。少しだけ肩が跳ねた。
 ゆっくりと優しく手巾を滑らせながら、背中を見つめる。
 傷ひとつ、荒れひとつない、きれいな肌。肩は女性らしく丸い。胸を隠すように腕を前で組んでいて、恥ずかしがっていることが伝わってくる。少し視線を落とすと、くびれが目に入る。男の体にはない曲線が目に焼き付く。

(い、いかん……)

 目の毒すぎる。好いた女の背中というだけで、こうも欲を掻き立てられるとは。興奮して、つい手に力が入ってしまいそうになる。
 肩から背。そして背中から腰へと手巾を滑らせようとした時だった。が体を震わせた。
 腰まではやりすぎだったかと恐る恐るの顔色を伺って、手巾を取り落とした。は泣いていた。

「なっ、、どうした、嫌だったか?」
「……っ、ごめん、違うの、違うから。望ちゃんのせいじゃないの、ほんとに」

 と言って、は鼻をすすった。顔を覆って泣き始めたに、太公望はどうすることもできずにおろおろとするしかない。

「どうしたのだ、どこか痛むのか? 熱が……」
「ち、違う、そうじゃない……思い出しちゃっただけなの、」
「なにを?」
「天化にも、よくこうやって体を拭いてもらったなあ……って」

 体が凍り付いた。の口から出てきた名を聞いて、心の中がすうっと冷えていった。ぎりぎりと、まるで心の両端を持って絞られているかのような感覚が襲う。

「勝手に思い出して、勝手に泣いちゃって、ごめん、ごめんね」
……」
「望ちゃんの前では泣かないって、決めてたのにな……ごめん、ほんとに、望ちゃんのせいじゃないの」

 太公望を気遣って、背を向けたまま謝り続ける。たまらなくなって、その体を後ろから包み込んだ。

、謝るでない……わしには謝るな」
「望ちゃん……」
「おぬしは、それでいい。そうやって泣いていいのだ、
「う、ううっ……望ちゃ、ごめん、望ちゃん……!」
「謝るなというのに……わしがおる、誰も見ておらぬ。だから……」

 嗚咽が激しくなった。の体を振り向かせると、彼女の顔を自分の胸に隠すようにして抱きしめる。目に入ってくる白い体は見ないようにした。今だけは見れなかった。
 の涙を見て、どれだけ自分が浮かれていたかを思い知った。いじらしい姿を見て、肌を見て、どれだけ浮かれていたのか――自分のことしか考えてなかったのかを。

は愛しているのだ、天化を……愛しているのだ、心から!)

 こうやって体を拭かれる感触だけで思い出してしまうほどに、天化はのそばにいたのだ。心に住まっているのだ。そこに、付け入る隙などありはしない。浅ましい考えを巡らせられるような余地はないのだ。
 馬鹿なことを考えていた自分を殴りたくなってくる。楊ゼンに対して思っていたことが、すべて自分に返ってくる。
 最愛の男を亡くしたばかりのに対して、なんという浅ましいことを考えていたのか。の心を思いやってやれるのは、一番近しい自分ではなかったのか。に責められることを恐れて避けた次は、隙に乗じて触れようとしたなんて。なんという男だ――
 太公望の胸で、は泣いた。己に対する慙愧の念で渦巻いている胸中をすべて飲み込んでひた隠しにして、の涙を受け止めるだけの胸に変えて。太公望は、天化を思って悲しむと初めて向き合った。

***

 泣き疲れて眠ってしまったを横たえて、自分もその隣に寝そべった。胸は涙を吸ってしっとりとしている。のものだと思うと、なにも気にならなかった。
 雲中子の薬が効き始めて熱が下がっているのか、の寝顔は穏やかだ。顔は泣いたせいで赤く、まぶたが少し腫れかかっている。
 涙で濡れた頬を指で拭ってやる。その指を、頬から離さずに、ゆっくりと首筋へと移す。首筋を通って、鎖骨へ。鎖骨から胸元へ、柔らかな胸、腹、へそ。太公望は、肌のなめらかさと柔らかさを味わうように、ゆっくりと手を這わせた。
 きれいな肌だ。傷ひとつない。以前はあったであろう、天化が付けた鬱血のあとも、もうない。
 これ以上この肌を見てはだめだ。そう思い、脱がせたままだった寝間着をの体の上にかけ、その上から布団をかぶせる。
 頬にかかった髪を払ってやる。今は穏やかな顔をしている。先ほどまでの深い悲しみを感じさせない寝顔に、太公望は胸を締め付けられた。
 薄く開いたの口に、迷わずくちびるを落とす。
 ここで我慢すると、いつかなにかが決壊する。取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない。そうなるくらいなら、ここで意識のない彼女のくちびるを奪うくらい、許してほしい。
 触れて、少し離れて、また触れる。起こさないように優しく触れて、反応がないことを確かめると、今度はもう少し深く重ねた。
 柔らかいくちびるだ。以前薬を飲ませるために触れたことがあるが、その時はこんな気持ちを抱いていなかった。あるいは、自覚していなかった。
 こんなに苦しいなら、気づかなければよかった。
 どうして、気づいてしまった。
 どうして、愛してしまった。

(――どうして、わしの前に現れてしまったのだ、!)

 苦しみのあまり、くちびるを強く吸ってしまいそうになる。衝動をこらえてくちびるを離す。もうこれっきりにしようと思ったのに、愛おしい寝顔を見て、また口づけたくなる。そうして、そっと触れるだけのキスを繰り返す。
 どうして、こんなに近くにいるのに、どうして、どうして。
 心の中で問いを繰り返しても、答えが出るはずもない。ままならないから、こんなに苦しいのだ。

(これで、終わりにしなければ。ここで、この気持ちを捨てるのだ……)

 これが最後だと固く決意して、思うがままに体に触れて、くちびるを重ねた。ここでこの思いを発散して、今日限りでへの思いを捨てよう。元の、気の置けない仲間に戻るのだ。
 最後にくちびるを深く合わせて、太公望は寝台から滑り出た。すっかり冷めてしまった湯が入った桶を手にして、扉を開ける。部屋の外は、もう日が傾いていた。冷えた空気が、火照った体に心地よかった。
 最後に、一目だけ。思いを乗せてを見つめる。
 彼女がこの視線に気づくはずもない。癒えない悲しみに打ちひしがれて、深く眠っているのだから。
 そんなところにも、太公望との関係性が伺える。
 不毛だ。この気持ちを抱えていても、不毛なだけなのだ。受け入れられることがない想いなど、捨ててしまったほうがはるかに楽だ。にしたって、太公望から恋情を向けられても悩ませるだけだろう。今まで保護者のように見守ってきた太公望がを女として見ていると知ったら、どれだけ困惑するか。

(いらぬ。もう、いらぬ)

 太公望は、桶の中身を中庭にぶちまけた。石畳に跳ね返って、あたり一面が濡れる。今夜は薄く雲っていて、月の光はない。できた水たまりは、ただ黒い。
 軽くなった桶を抱えて、太公望は広間へと足を向けた。
 抱えているものが軽くなったはずなのに、太公望の足取りは一向に軽くならなかった。

 

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