一つの未来のかたち



 夜空には星が瞬き、地上をほんのりと明るく照らしていた。月は見えない。
 寝台に横になっている娘の肌を、星明りが照らしている。寝台の傍らに立っていた者は、娘の白い頬にそっと手を添えた。娘は起きない。深く眠っている。
 この娘は、ずっと眠っている。いつ目覚めるか、いつまで眠っているのかはわからない。何年、何十年と眠るかもしれないし、明日の朝に起きるかもしれない。
「次に目覚める時は、わしのことを思い出せるかのう……」
 傍らに立っていた者から、呟きが漏れる。その声を聞くものは、この場にはいない。



 はごく普通の一般市民である。ごく普通に育ち、大学を出て働いている。この不況の中、残業は多いが、まともに休みがあるだけで幸運だと思っている。今も、残業がやっと終わり、独居のアパートに帰宅しているところである。時刻はすでに十時を回っている。
 部屋は二階にあるので、外階段をのぼる。今日も今日とて足がむくんで、階段をあがるのがつらい。こういうとき、彼氏の一人でもいれば愚痴を聞いてもらえるのだろうが、あいにくには彼氏はいなかった。
 二十代も半ば、もうそろそろ結婚の二文字がちらつき始める。しかし社会人になると、思ったより出会いがない。友人に誘われて合コンなどに参加したこともあったが、そう簡単に彼氏が見つかれば苦労はしない。
 過去に彼氏がいたことはあるが、学生時代が終わるとともに破局した。
 はぁ、とため息をつきながら部屋のドアを開ける。狭い玄関の先に、暗い部屋がある。パンプスを散らかしながら脱ぎ、部屋の電気をつける。テーブルの上に放置された朝食時の皿、ベッドに脱いだままの寝間着、クローゼットは開け放たれたまま。休日のたびに片付けているが、平日は忙しくて片付ける気にもならない。
 はぁ、とため息をついて、バッグを放る。すると、携帯電話が震動した。短い震動で終わった。メールだ。
 新着メールを開いてみると、日並という男からだった。この男、この間の合コンで知り合った男性で、の二つ年上だ。独身で地方公務員、オマケに彼女もいない。ついでに言うとさわやか系の中々の美形で、こんなもてそうな男がなぜ合コンなんかに、と、びっくりしたのを覚えている。合コン当日、男性側の欠席を埋めるために急遽呼ばれたらしい。ちょうど、通路側に座っていたの目の前に座り、それから途切れない程度に会話を続けていた。なぜか連絡先を交換することになり、何度か食事に誘われた。今回のメールも、今度の週末に食事でも、というお誘いである。
(脈あり……かなぁ)
 悪い人物ではないし、趣味や会話なども合う。一緒に居て、楽しいと思える男性だ。このまま交際に発展させれば、そう遠くないうちに結婚できるかもしれない。そう思うと、このメールの返事も決まったようなものだが、はなんとなく気が進まないでいる。
(うーん……どうしようかな)
 と、そのとき、ガラス戸の向こうのベランダで、黒い布のようなものがはためいた──ような気がして、はベランダを見た。
 そこには、今朝干しっぱなしにした洗濯物のタオルがはためいているだけだった。
(……タオルか……そういえば、取り込まないと……)
 再び携帯の画面に視線を落とす。今度は迷わずに、了承の返信をする。送信完了の文字を見て、携帯をベッドに置いて、ベランダへと立ち上がった。



 抜けるような青い空、果てのない地平線。大地には民家などはなく、ただ草原が広がっていた。ああ、これは夢なのだとは漠然と思った。現実の空はこのようには澄んでおらず、地平線を拝むことなどない。
 は、誰かに呼ばれたような気がして、右隣を見た。裾の長い、黒衣を風になびかせて、思ったよりも近い距離に立っていた。足元から、顔のほうへと視線を向ける。
 もう一度、名前を呼ばれた気がした。顔を見る前に、その人の名前を呼ぼうと口を開いた。
 しかし、名前が出てこない。この人は誰だろう。知っている人だろうか。
 その一瞬の間に、夢は終わりを告げた。暗転の後に目を開くと、そこには見慣れた天井が移った。夢から覚めた。
 は、枕もとの目覚まし時計を見る。セットしてある時間の、数分前に目覚めた。このようなことは珍しい。特に今日は金曜日で、一週間の疲れがたまっているのだが。
 後数分ならば、起きるしかない。今もう一度寝たら、今度は遅刻するような気がする。
 やれやれ、と体を起こす。そこで自分が泣いていることに気がつく。頬をこすると、寝ているときに流した涙が手についた。
「……?」
 泣くような夢を見ていただろうか。は、直前まで見ていた夢を思い返そうとするが、思い出そうとするときに限って、中々はっきりと思い出せない。覚えているのは、青い空と地平線だけである。
「…………ま、いっか……」
 は、ぼんやりとしそうになる頭を振って、立ち上がった。冷蔵庫から朝食になりそうなものを取り出し、お湯を沸かす。
 いつもの朝が始まる。



 金曜日ということで、普段よりも早く仕事を上がる。同じように帰り支度をしている上司に挨拶をして、部屋を出る。出たところで、ちょうど違う部署から出てきた同期の友人が、に声をかけてきた。
「お疲れー。今日これから、晩御飯でもどう?」
 数少ない同期の中で、一番仲がよく、この間の合コンにも一緒に行った友人だ。中々整った顔立ちをしているが、フリーである。よりも背が高く、中学高校と剣道部に入っていたらしく、姿勢がいい。そのため、すらっとしていて、高嶺の花という感じがする。フリーなのは、それが原因かもしれない。
 は笑顔で挨拶を返した後、是と答えようとして、言葉を飲み込んだ。忘れていたが、明日は日並に誘われているのだ。ついついこの友人と話し込んで、日付を超えてしまうようなことは避けなければならない。
「誘ってくれて嬉しいんだけど、明日ちょっと、出かけるから。ごめんね」
「そうなの?あ、もしかして、デート?」
「デート……かな?一応ね」
「わかった。この間のイケメンだ。気に入られてたもんねー。いいなぁ」
「そういうわけだから、ごめん。また今度ね」
「じゃあ、月曜日話聞かせてね!お疲れー」
 友人と別れ、駅へと向かう。アパートは電車で三駅離れたところにある。急行が止まるので、中々便利ではあるが、当然電車は混んでいる。駅のホームに降り立つと、すでに電車待ちの列が出来ており、はため息をついた。
(この感じじゃ、絶対座れない……)
 それどころか、無事につぶされずにアパートの駅までいられるかどうかも怪しい。足をふまれた経験もある。パンプスの時にふまれると、痛いのだ。
 と、そのとき、列の向こうに、裾の長い黒衣がちらついた。黒や灰色のスーツが立ち並ぶ中、やけに鮮やかな黒が写り、はどきりとした。
 あの黒は、今朝の黒衣にそっくりだ。今まで忘れていたが、夢に出てきた、黒が。
 は慌ててその黒を追おうとしたが、ホームは人でいっぱいで、まっすぐ歩くことも難しい。人にぶつからないようにあちこちに視線を移していると、あの黒衣の後姿を見失ってしまった。
(あれ?気のせい……?)
 後姿が向かった先に目を凝らしてみても、見つけることは出来なかった。本当にいたのかも怪しくなってくる。見間違いだったのだろうか。
 周りには、黒や灰色のスーツ姿がたくさんある。その一つを見間違えたのかもしれない。
ホームに、の乗る電車のアナウンスが響き渡り、電車がガタンと音を立てて到着した。も、慌てて列の一つに並ぶ。 電車は案の定混んでいる。列の後ろのほうからその乗車率を見、またため息をついた。
 ぎゅうぎゅうに押しつぶされながら電車を降り、アパートまでたどり着く。残業で夜遅く帰るのも嫌だが、ラッシュに巻き込まれるのも同じくらい嫌なものだ。また一つため息が出る。
(明日は、楽しくなるといいんだけど……)
 日並は落ち着いていて、こちらを気遣ったように会話を楽しませてくれる。なぜこんな優良物件が彼女の一人もいないのか、つくづく不思議であるが、本人曰く、縁がないのだという。
 そんなことをぼんやりと考えつつアパートの外階段をのぼろうと視線を上げると、視界の端に、鮮やかな黒が映った。
(あ……っ)
 黒衣の裾は二階へと消えたように映った。は急いで階段を駆け上がり、通路を見回す。すると、また黒衣の裾が視界の端に映った。今度は、の部屋へと消えた。
 自分の部屋のドアへと駆け寄り、急いで鍵を開ける。焦っているので、中々鍵穴に刺さらずにいらだつ。やっと鍵を開け、ドアを開けると、そこには、見慣れた暗闇があった。部屋に上がり、明かりをつけて周りを見渡すが、黒衣など見当たらない。今朝出て行ったとおりの部屋だ。
(気のせい……?なんで、こんなに気になるの?夢に出てきたから?)
 夢の黒は、懐かしいような切ないような、怖いような感情を伴った。そこにいた人物の名前も、顔もわからないままだというのに。なぜか、気になるのだ。
 しかし、夢で出てきたものが現実にいるとは到底考えられない。ましてや、それが人並みをすり抜けたり、ドアをすり抜けたりするはずもない。そんなことが出来るのは、人間ではない。
(もしかして、幽霊?…………んなわけないか)
 霊感など、生まれてこの方感じたことがない。そもそも、そんなものはいないと思っているほうだ。は自分でも馬鹿らしくなって、息を吐くと、バッグを放り、着替え始めた。

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