恋のましろ


 薔薇を渡す機会があったのだ、彼に。
 真っ白な、一点の汚れもない白い薔薇を。
 それを受け取った彼のまぶしい笑顔を真正面から見ていられなくて、思わず目線を反らせた。彼の笑顔がさわやかすぎて照れてしまったなどと、彼に悟られないように、さりげなく世間話をしながら。
 下げた視線の先に、薔薇の茎を手にする騎士の手があった。整った形をしていて、剣を振るっているようには見えない、綺麗な手だった。

「マスター、どうかしたのかい」

 その手に見とれて口を閉ざしてしまったを怪訝に思った彼が、首を傾げた。何気ない仕草も絵になる。悔しいほどに。
 そう思うのは、彼──アーサー・ペンドラゴンが、普段とは違った装いでいるからなのだろうか。今は普段の鎧姿ではなく、白いタキシード姿なのだ。普段の彼が絵本から飛び出してきた騎士だとすれば、今の彼はまさに絵本から飛び出してきた王子様だ。
 白薔薇を持つ姿があまりにも様になりすぎている。ちょっとはねた金髪が愛嬌を演出している。
 悔しい、ともう一度心の中でつぶやいていると、アーサーが再び声をかけてきた。

「マスター?」
「ああ、いや、なんでも……ちょっと、別のことを考えていて」
「別のこと? それは一体、どういうことか聞いても?」
「う、あの、まあ、いいですけど……アーサーさん、手が綺麗だなって思ってて……」
「手? 僕の?」
「うん。普段は篭手で隠れてるから、直接見るの初めてで……それで、綺麗だなーと思ってました」

 普段から特に隠し事が得意ではないほうだが、自分の思っていることを素直に打ち明けるというのはどうも気恥ずかしい。それが、本人に対してならなおさら。
 照れ隠しのために後ろ頭をかきながら視線を泳がせていると、アーサーが押し黙っていることに気がついた。彼に視線を戻すと、なんとも言えない表情で自分の手を見下ろしていた。

「まいったな。そんなことを言われたのは初めてで、つい自分の手をまじまじと見てしまった」
「初めて?」
「ああ」
「うーん、私は整ってて綺麗だと思ったんだけどな」
「実際はそうでもないよ。剣を握るから皮が硬くなっているし、マメのあともある。素手で応戦することもあったから、マスターが思っているよりも綺麗じゃない」
「そうなんですか?」
「触ってみるかい」

 アーサーの提案に即座に頷くと、差し出された手を両手で握ってみる。

「あ……ほんとだ、ごつごつしてる」
「だろう?」

 手のひらには確かにマメのあとがあった。手のひらの皮が全体的に硬くなっていて、指の節々も近くで見ると案外骨ばっていた。剣を握ること──戦いが日常と化していたことの証の手だ。
 篭手の下の手は日焼けが薄くて綺麗に見えたのに、実際に触れてみると、色々と新たな発見があった。
 ぺたぺたと彼の手に遠慮なく触れていると、目の前の彼が苦笑いした気配が伝わってきた。しかし、こんな機会はめったにない。今のうちに堂々と触っておきたい。

「すごい、想像してたのと違う」
「想像って、一体どんな手だと思ってたんだい」
「王子様の手、みたいな……? 今の霊衣のせいかも」
「それで、想像と違ってどうだった?」
「えっと……まずは思ったよりごつい。あと、あったかい」
「うん」
「ごついけど爪が綺麗で、あとやっぱり、思ったより大きく、て」

 アーサーに促されるままに感想を述べていただったが、自分が感じたことを音にすると、それを客観的に理解するようになる。
 思ったよりごつくて、自分の手よりもあったかくて、爪が整っていて、大きい。
 ──男の人の手だ。
 それを認めてしまったら、もう隠せなくなってしまった。アーサーの手に触れていることへの恥ずかしさと、嬉しさと、困惑が。
 みるみるうちに頬が熱くなっていく。きっと、いや間違いなく、顔が赤くなっているに違いない。
 この手のせいだ。触れているからいけない。彼の手の感触と微熱と大きさを感じているから、こんなに戸惑ってしまうのだ。
 彼の手から自分の手を外そうとすると、触れていた右手を掴まれた。ここで手を掴まれるとは思っておらず、は目を見開いてアーサーを見上げた。
 そう、見上げた。いつの間にか、見上げなければ彼の顔が見えないほど、距離が近くなっていた。アーサーが着ているシャツの、ストライプの本数が数えられるくらいに近い。

「あああの」
「どうしたんだいマスター、顔が赤い。体調でも悪いのかい? 熱でも?」
「いや熱はない、です。あの、手を」
「手?」
「手を、離してもらえないかなーって」
「僕の手はもういいのかい?」
「う、うん、はい、もう大丈夫、十分です。ありがとう」
「そう。それじゃあ……」

 よし、これでこの手から解放される。はひとまず心を落ち着ける態勢に入った。自分から握ったくせになにを言っているのかと思われるかもしれないが、がアーサーの手を掴んでいるのではなく、今やアーサーがの手を握っているのだ。そんな状況、自分の心を自覚してしまった少女には刺激が強すぎるのだ。
 アーサーの手から力が抜けた。ほっ、と息を吐こうとした瞬間、また手を掴まれた。今度は、さっきよりも強い力で。

「!?」
「今度は僕の番だね、マスター」
「え……え?」
「僕の番。君が僕の手を好きに観察し、触れたように、今度は僕が君の手に触れる番」
「…………え?」

 にっこり。彼の笑顔がまぶしい。しかし、笑顔がどことなく有無を言わせない圧力を含んでいる。僕の番だね、という言葉からも、こちらの意思を問うていない。もはや彼の中で確定事項なのだ。
 が固まっていると、アーサーは拒否されないのをいいことにの手に両手で触れた。

「あたたかくて、小さい手だ。それに、傷だらけだ」
「傷? レイシフト先での傷はカルデアに戻ってきたら影響しないのに」
「そうだね。今は綺麗な手をしてる。でも、実際にたくさん傷ついてきたんだろう?」
「う、うん……生傷は絶えないよ、いつも」
「そうだろうね。君は自分から危険に飛び込んで、たくさんのものを守るような人だから」
「……どうだろう、守れなかったこともいっぱいあります」
「それでも、守ったものもある。この小さな、普通の女の子の手で」
「……!」

 アーサーの言葉に、不意に目頭が熱くなった。誰に認められなくてもいいと思って特異点を修正してきたが、英雄たる彼に自分が選んできた道を認められて、思わず涙が浮かんでしまった。
 つらいことも苦しいことも悲しいこともたくさんあったけれど、君は間違っていない。
 そう言われたように感じて、嬉しいと思ってしまった。

「普通の女の子の手よりも大きいって、よく言われますよ」

 潤んだ瞳をごまかすように軽口を叩いた。実際身長も平均より高いほうだし、手のサイズもマシュより大きいと思う。実際に比べてみたことはないが。
 アーサーは、慈しむような目線をの顔から外して、の手を見た。まじまじと普通の女の子よりも大きめの手を見てから、小さく笑い声を上げた。

「そうかもしれないね。でも、僕にとっては小さい手だよ。ほら」
「あ……」

 手のひらどうしを重ね合わせると、アーサーと、手の大きさの違いが一目瞭然だった。指の長さも違うし、そもそも手のひらの大きさも違う。

「ね?」
「うん……ほんとに、アーサーさんの手は大きいんだね」
「それはまあ、僕も男だから」
「っ……!」

 アーサーの指が、の指の間に入り込んで、ぎゅうっとの手を握りしめた。貝殻のように合わさった手と手。隙間なくくっついた手のひらから伝わる微熱が、今はもう同じ温度になっている。

「マスター、。僕は君の小さくて傷だらけの手が愛しい」
「アーサーさん」
「この手を、ずっとそばで守っていきたい。君の元に居られる限り」

 と言うと、彼は。彼の指の隙間から生えるの指に、そっと口を寄せた。
 くちびるの微熱が指に伝わってきたのを感じた瞬間、の思考が停止した。なにが起こった。なにが触れている。なに、目の前のこの人は、一体なにを、なんで。
 わからない、一体なにがどうなったのか。は混乱の極致にあった。疑問と、自分の中のアーサーへの思いが膨れ上がって、やがて許容量を超えたそれらは、の外へと流れ出した。
 の両目から突然湧き出てきた涙を見て、アーサーがぎょっと目を剥いた。慌ててくちびるを離し、貝殻繋ぎにしていた手を両手で握りしめた。

「マスター、泣かないで。泣かせるつもりはなかったんだ、ごめんよ」
「え……あ、ほんとだ、なんで泣いてるんだろ、」
「ごめん、本当にごめん。泣くほど嫌だとは思わなくて」
「ち、ちがう、違うんです、いやじゃない、ほんとに」
「でも」
「嫌で泣いてるんじゃないんです、なんていうか……キャパオーバーというか、びっくりしすぎて」

 の涙が落ち着くまで、アーサーはの手を優しく握っていた。やがて、呼吸を落ち着かせて涙を止めたは、恥ずかしそうに目を伏せたままアーサーに礼を言った。

「ごめんなさい、びっくりして、泣いちゃうなんて」
「いいんだ、気にしないで。もとはと言えば、僕が君を驚かせてしまったんだから」
「……あの、アーサーさん、さっきのあれは一体……」
「……だって、ほら。好きな子に手を触られて、可愛い反応を見せつけられたら。やり返したくなってしまうのは当然だろう?」

 などと、困ったような顔で彼が言った。再びキャパオーバーしそうな頭と心を落ち着かせるために、一生懸命彼のシャツのストライプの数を数えようとしたが、全然落ち着かなくてやめた。

「ねえ。君は無意識なのかもしれないけど、僕は言うよ。君が好き。さっき言ったことは、冗談でもなんでもなくて、僕の本心だよ」
「……!!」
「君が僕と同じ気持ちであってほしいと、期待しているのだけど……ダメかな?」

 不安をにじませた言葉とは裏腹に、に触れる彼の手は、優しく、しかししっかりとの手を握っている。恥ずかしさが勝ってしまうをこの場から逃がすまいとするかのように。
 いつの間にか、の心もこの手から伝わってしまったのかもしれない。微熱と一緒に。
 手が緩む様子がないことを悟ると、ははあ、と長い息を吐いて、白旗を上げた。

「……アーサーさんはずるい」
「ずるい?」
「もうわかってるのに、私の気持ち」
「そうだね。君はわかりやすいから。隠し事も下手だし」
「……いつから、気づいて」
「手が綺麗だと言ってくれた時から、なんとなく。だって、そんな細かいところまで見てるなんて、気になるってことの証だろう?」
「そっ……! う、いや、まあ、そう……ですね、好きだから、つい見てしまうのは」
「それで、君の口からは聞かせてくれないのかい。君の気持ちを」
「〜っ……! だから、そういうところが、ずるい!」

 もう気持ちはわかっているのに、あえて言わせようなんて。手が捕まってしまっているから逃げられない。彼は、期待に翡翠を輝かせて、をまっすぐ見つめて、視線も逃さないと言っているかのようで。
 ──こんなの、降参するしかないじゃないか。

「わ、私も、アーサーさんが、好きです……自覚したのは、ついさっきだけど」

 彼のふたつの翡翠が、期待の色から喜びに変わる。光を受けてきらきらと、まぶしい。

、抱きしめてもいいかい」
「……また、そういうこと言う……」
「僕はこれでも自分を抑えているつもりなんだけれど。本当は、問答無用で君を抱きしめたいのを我慢しているんだよ。でも、そうすると君がまたびっくりして泣いてしまうんじゃないかって」
「うう……わかりました、わかったから……うん、抱きしめても、いいです、よ」

 が了承した瞬間、触れていた手を離して即座に抱き寄せられた。あっという間に腕の中に納まってしまったは、爆発しそうになる胸の内を、彼のシャツのストライプを数えてなだめようとして、やめた。近すぎて見えない。
 どくどくと、胸の音がする。こうして彼の胸に顔をくっつけていると、その心音がどちらのものかわからなくなってくる。
 そのことが、とても嬉しくて。心が壊れてしまうんじゃないかと思うほど、満たされていく。

「……、キスをしてもいいかい」
「う、うう……だめ、もう少し待って、」
「ダメ、もう待てない、ごめんよ」
「……!!」



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