あの夏の、輝く君に


※霊衣賢王様とひと夏の恋。現代パロ


 夏。夏といえばバカンス。恋人と南の島で熱く激しく愛を交わすバカンス。
 そんなことを夢見ながら、今年の夏は南の島に行きたいね、なんて言っていた。
 いた。そう、過去形。そんな時期もありました。
「ごめん、他に好きな人ができたんだ」
 そんな軽い一言で夏前に彼氏にフラれてしまった藤丸は、荒れに荒れた。
 付き合いたてのころは南の島ってどこがいいかな、ハワイもいいけどバリ島とかもいいよね、なんて想像に花が咲いた。
 しかしいざ夏前の計画段階になると、どうも彼氏は乗り気でなかった。思えば四月くらいからどこかそっけないなと思っていた。社内恋愛でフラれてしまい、気まずさとショックでどうにかなりそうだった。さらに、新入社員の女の子と元彼が付き合っていると噂を耳にし、そりゃもう荒れた。弟にドン引きされるくらいに荒れた。毎日のように飲んだくれ、寝不足と暴飲で肌も髪も荒れた。仕方ないのだ、飲まなきゃ眠れなかった。

、もう飲むのやめなよ……」
「うっさい、飲まなきゃやってられない気持ちがあんたにはわかんないんだよぉ……」
「でもそんなんじゃいつか体壊すよ。なんか別の気晴らしにしたほうがいいって」
「別の……?」

 と言われても。仕事をしていても家で家事をしていても元彼の顔がちらついて、なにをしても楽しめない。やる気自体も起きてこない。だから飲んだくれているのに。
 怪訝そうに弟を見やる。顎に手を当てて考え込んでいた彼は、なにか思いついたらしく表情を明るくした。

「そうだ! 南の島にでも行こう!」

 目をキラキラと輝かせて、彼は姉の地雷を踏みぬいた。

 ***

 結局、こうと決めたら行動が早い弟に引っ張られるような形で南の島に来てしまった。が態度を濁している間に、彼は早々に旅行の手配をしてしまったのである。

「もうここまで来ちゃったんだし、も楽しまなきゃ!」

 という、底抜けに明るい笑顔を見ていると、怒る気にもなれなかった。
 姉弟で南の島に旅行に来たからといって、常にふたり一緒に行動するわけではない。それぞれ好きに行きたいところに行って楽しもう。というのが彼のプランだった。

(我が弟ながら大雑把というかなんというか……)

 とはいえ、ひとりは気楽だから助かった。誰かと一緒にいるのは楽しいが、今はそういう気分ではない。そのへんの察しの良さはさすが家族といったところか。
 コテージに着いて荷解きを済ませると、弟はさっそくビーチへと向かった。
 は社会人二年目、弟はまだ学生。宿泊代節約のために部屋はツインである。まあ、生まれてからずっと一緒だった弟なら特に気を遣う必要もないし、仲も悪くない。同室でも別段気にならなかった。
 少し足を休めつつ窓の外の景色を眺めた。抜けるように青い空、南国特有の木々と原色の花、カラッとして熱い空気。海は、このコテージの部屋からはよく見えないのが残念だ。
 飛行機から散々海は見えていたが、やはり近くで見たい。ちょっと休んだら見に行こう。歩いて十分ほどのところにビーチがあるので、夕飯までの散歩がてら近くの街を見て回るのも悪くない。
 急に決まった三泊五日の旅、ツアーではないし連れは気の置けない弟だ。気晴らしにはもってこいだろう。
 オレンジの柄シャツ、白のショートパンツに着替える。シャツの裾を結んでお腹を出すと、一気にビーチに遊びに来た感が増した。露出した肌にオイルを塗ると、サンダルを履いてコテージを出た。
 海岸線に沿って広い道路が整備され、思ったよりも都会的な印象を受ける。島の中心部には大規模な商業施設や市場もある。たちが泊まっているのはコテージだが、も名前を知っている高級ホテルも建っている。ビーチの手前にはコンビニのような店、ファストフードのキッチンカーも出ており、観光の島なのだということがわかる。
 時刻は日本だと夕方にあたる時間なのだが、この島では日没が二十時近くになるらしい。まだまだ明るく、ビーチにも通りにも人は多かった。

「わあ……きれい……」

 通りからビーチを眺める。間近でなくともエメラルドグリーンの海は美しかった。ビーチからだと日光を反射した海がきらきらと眩しいに違いない。
 ふと、ビーチに人気のない一帯があることに気がついた。観光客が泳いでいるビーチとは岩場で区切られており、岩場の向こうは誰ひとり泳いでいない。そちらに興味を引かれ、はふらふらと歩き出した。
 人のいないビーチの手前には看板が二枚立っていた。どちらも現地の言語で書かれているのでには読めなかった。そのうち一枚はクラゲのような絵が描かれていたので、かろうじてそれがクラゲ注意らしい看板だとわかった。

(なんだろう……危険がある、のかな? でもなにかあるようには見えないし……ちょっと近くで見るだけならクラゲも大丈夫だよね?)

 周囲に誰もいないことだし、少し海を見るだけだから。
 そんな気持ちで、はそのビーチに降りたのである。



 白く細かい砂浜には小石ひとつ、ゴミひとつ落ちていない。さらさらとした砂が気持ちよさそうでサンダルを脱ぐと、太陽の光を受けた砂が足裏を温めた。

「やっぱりきれい……」

 きらきらと光を反射するエメラルドの波間。白波に洗われた波打ち際。澄んだ青空と海の水平線。そのなにもかもが、日本の景色とは違っていた。
 ──これが、元々は元彼と話していた旅行でなければ、もう少し心から楽しめたのだろうか。

『好きな人ができたんだ』
(──っ)

 別れ際の顔と声がちらついて、思いっきり首を横に振った。
 今は思い出したくない。この旅行を楽しみたいんだ。
 だから、もうあなたは出てこないで。
 そう思いつつ下げた視線の先に、小さなカニがいた。岩場に向かってゆっくり移動している。
 なんとなくカニの姿を目で追って、あのカニはどこに向かっているのかな、などと取り留めのないことを思っていると。

「ん……? なにあれ」

 岩場の陰から、なにかが出ている。
 自然の色ではないその物体を、目を凝らして見つめる。尖っていて、アルファベットのエルの字状に曲がっている。例えるなら茶色い靴を履いた足、のような……

「あっ、あし!?」

 白いズボンを履いた人の足だった。岩場の陰から海面に向かって、投げ出されたように転がっている。嫌な予感がして、急いで足のほうへと駆け寄った。
 誰かが倒れているのだ。というか、倒れているだけならまだしも死体だったらどうしよう。
 岩場の影をのぞき込むと、潮が引いた岩のすぐそばに若い男が倒れていた。
 見事な金髪に紺色のシャツ、白のボトム。両腕と首元、両耳に金のアクセサリーをつけている。履いている革靴も随分高そうなものだ。
 バカンスに来た西洋人の富豪、といったいかにもな風貌だった。
 顔をのぞき込むと、白い肌をつたう汗と、苦しげに寄せられた眉根が目に入った。額に手を当ててみると、若干熱いような気がする。

(息はある……もしかして、熱中症とか?)
「あの! 大丈夫ですか!」

 額に手を当てたまま彼に声をかける。

「もしもし! 聞こえますか!」

 何度か呼びかけると、男が唸った。彫りの深い目元を飾る長いまつげが震えたかと思うと、いきなり額に触れていた手を鷲掴みにされた。

「うひゃあ!?」
「──貴様は誰だ」

 ぱちりと開かれた瞼の下には、宝石のような赤い瞳があった。
 目を閉じていた時から、なんとなくこの男は美形なのではないかと思っていたが、その予想は当たっていたようだ。訝しむようにをじろじろと見る目つきは険を含んでいるが、かなりの美形である。鼻梁が通っていて、眉の形もくちびるの形も、フェイスラインですら完璧に整っている。どの角度から見ても美しいと思わせる容姿とは、こういう男のことを言うのだろう。
 まじまじと見ていると、男の目つきがまた険しくなった。はっとして、男が先ほどの短い問いの答えを待っていることに気づいた。

「えっと……ここを通りすがった者です。ビーチからあなたの足が見えたので、誰か倒れてるんじゃないかと思って」
「通りすがっただと? ここは我のプライベートビーチだが」
「は?」
「まったく。貴様ら日本人は旅行先の現地の言語を、少しは学ぼうとせんのか」
「日本人て……あ、日本語……」

 この男がしゃべっているのは日本語である。どこからどう見ても日本人には見えないのに、あまりにも流暢な日本語である。

「なぜ、という顔をしているな。貴様が日本語で我に話しかけてきたのだから、日本語で返したまでだ。だが我の判断は正しかったようだな。その反応からすると、貴様はどうやら語学に堪能ではないようだ」
「う……ま、まあその通りですけど……あ、っていうか、あなたはどうしてこんなところで倒れてたんですか? 熱中症とか……?」
「我の質問に答える前に質問を投げかけてくるとはな。まあいい、我の身を案じる殊勝さに免じて答えてやろう。熱中症ではない」
「ほんとに? 頭痛はありませんか? 吐き気は?」
「ない」

 そう言うと、彼は鷲掴みにしていたの手を離した。しっかりとした受け答えにほっとして、は腕を下ろした。

「おそらく追手から逃げる途中で岩に生えていた海藻に足を取られて転倒し、頭を打って気絶していたのだろう。頭痛はないが頭は痛い」
「それを早く言えーー!」

 下ろした腕を別の意味で振り上げることになった。上体を起こした彼の背後に回ると、打ったと思われる箇所にそっと手を伸ばした。さらさらと流れる金の髪がくすぐったかった。
 とりあえず血で汚れてはいない。岩で頭を打ったそうだが、割れてはいないようだ。

「失礼しまーす……このへんですか?」
「そこであろうな、少し痛む」
「ああ……ちょっとこぶになってる。冷やしたほうがいいかな……ちょっと待っててください、そこのコンビニで冷やすものを買って来ますから」

 そう言い残すと、男の返事も聞かずに走り出した。コンビニになら氷くらい売ってるだろう。もし売ってなくても冷えたミネラルウォーターでも買っていこう。なにもないよりはましだろう。
 幸い、コンビニにカット氷があった。氷と冷えたミネラルウォーターを買う。買い物袋に氷を入れれば即席ではあるが冷やせるはずだ。
 再び走って戻ると、金髪の男はの言う通りに待っていた。そのことに少しほっとした。

「遅いぞ。我を待たせるな」
「いや、これでも一応走ってきたんですけど……ていうかほんの数分のことじゃないですか」
「ふん、数分だろうが我を待たせたことには変わりあるまい」
「むっ……」

 一瞬、即席の氷袋でこぶを殴りつけてやろうかと思ったが、わざわざ走って買ってきたことを思い出してぐっと堪えた。

「〜〜、はい、これで冷やしてたら多少はましになるでしょう。それと水も」
「うむ、我を待たせたことは重罪に値するが、まあよい。大儀である」

 なんだこいつ。さっきから、っていうか開口一番からいちいち偉そうだ。出会ってまだそんなに時間が経ってないが、外見はよくても中身に難があることは十分にわかった。そして身なりはすごくいい。一体何者なのだろう。

(まあ会うのもこれが最後だろうし別にいいけど……)

 服装などから察するに、おそらくこの男も旅行かなにかでこの島に来ているのだろう。偶然にもこんなやり取りをしているが、ここで別れれば会うことはないだろう。そう思えば、偉そうな態度を取られても腹を立てるまでには至らなかった。

「それ溶けないうちに、一応病院で見てもらったほうがいいですよ。頭の怪我は怖いって言うし」

 親切心から言ったことだが、金髪は呆れたように、大仰なため息をついた。

「我の言葉を聞いていたのか貴様。追手から逃げてきたと言ったであろう」
「はあ……追手?」
「我は追われている。病院なんぞに行けば足がつく」
「えーっと……」
(この人一体なんなんだろう……)

 追手とは。スパイ映画の見すぎかなにかだろうか。今時小学生でももっとましなことを言うのではなかろうか。というか、もし本当に追われているとして、誰に、なぜ。
 だが、金髪の男の表情は特にふざけたものではない。をからかおうという気配はなく、事実をありのまま述べている様子だった。

「我のプライベートビーチに勝手に踏み入った罪は、その殊勝な心がけに免じて不問とする。だが次はないぞ、日本人の小娘」

 いきなり立ち上がった男は、尊大に言い放つと服についた砂を払った。が言葉の意味を理解する前にさっさと背を向けて去っていった。

「あの人一体なんなんだ……」

 ゆっくり散歩を楽しむつもりが、訳の分からないことを言う派手な金髪男に振り回されてしまった。とんでもなく美形だったが、とんでもなく尊大な男だった。流暢というかほぼネイティブに日本語を話していたのに、会話になっているか怪しかった。
 男曰くプライベートビーチから出ると、辺りにはもう男の姿はなかった。
 島に着いて早々謎のイベントが発生してしまったが、これからどうしようか。夕飯時にはまだ少し早い。もうちょっとこの辺りを見て回ろうか。

「すみませ〜ん、ちょっとお話いいですかぁ?」

 考え込んでいたところへ、間延びした声がかけられた。声のしたほうへ顔を向けると、褐色の肌と葡萄色の豊かな髪が特徴の、エキゾチックな美女がに手を振っていた。

「え、私ですか?」
「はい。あのぉ、この辺でオーナー見ませんでしたか? 金髪で赤い目をした白人男性なんですけど」
「オーナー……? う、うーん……」
(この人、あの金髪男のこと探してる……?)

 美女の言う特徴の男は明らかにさっき別れた男のことを指していた。
 追われているのだ、という声が脳裏をよぎった。まさか、本当に追われていたのか。
 美女はにこにことを見つめていてとても愛想がいい。おまけにスタイルも抜群である。印象だけなら先ほどの男よりもこちらの美女のほうがよっぽどいいが、どう答えたらよいか。
 が言葉を濁していると、それを察したように美女が首を振った。

「あ、それっぽい人に心当たりがなかったらいいんですよぉ。あなたがオーナーのプライベートビーチから出てきたように見えたので、なにか知ってるかもと思って声をかけただけですから。お時間を取らせましたぁ」
「は、はあ……」

 鋭い。おっとりした話し方ではあるが、言っていることは的を射ている。もしかしたら油断できないタイプの人なのではないか。

(プライベートビーチ……オーナー……追手と思われる賢そうな美女……)

 なにがなんだかわからないが、ともかくあの男がとは程遠い世界に住んでいることだけは伝わってきた。ああいう男こそが、間違っても好きになってはいけない人種だ。

(まあ……いい土産話にはなったかな)

 そう自分の中でまとめると、は一連のことについて考えるのをやめた。
 考えるだけ無駄なことに時間を使っている場合ではない。街の散歩を再開しようと、通りに向かって歩き出した。

 ***

 次の日。
 早々にビーチに出かけた弟とは合流せずに、は市場を見て回ることにした。観光ガイドにも載っている大きな市場で、島の魚や野菜、フルーツなど色々なものが見られる。あいにくこのコテージからは少し離れたところにあるのだが、バスが近くから出ているのでそれほど便は悪くないようだ。島に建っている高級ホテルからは近いようだが、社会人二年目のと学生の弟ではそんなホテルには手が出ない。
 バスの中には日本人観光客がちらほらといた。皆市場へと出かけるようで、ガイド片手になにを食べようかなどと話していた。
 バスを降りて、わらわらと市場へと散っていく観光客をぼんやりと見送る。よし、私も行こうと市場に足を踏み入れた瞬間、曲がり角から出てきた足につまづいた。

「ぎゃっ」
「む?」

 このまま地面にぶつかる、というところで伸びてきた腕に支えられ、地面とキスする事態は避けられた。が、腹部に慣性力がもろにかかって苦しい。

「ぐえっ……」
「貴様は昨日の、日本人の小娘ではないか。出会い頭に我に飛びかかろうとは不敬にもほどがあろう」
「げほっ……うえ、き、昨日の……」

 息を整えながら腕と足の持ち主を見上げると、そこには昨日の金髪の男がいた。

「不敬って、あなたの足につまづいただけであって、別にあなたに飛びかかったわけでは」
「ほう。それはそれは、脚が長くてすまんなあ」
「すまないとか絶対思ってなさそう……」
「ふん、市場に着いて早々また貴様に会うとはな。てっきり我に惚れて我の後をつけてきたのかと思ったぞ」
「それはないっ!」

 自意識過剰にもほどがある。確かにこの男は美しい容姿をしているが、それだけで好きになるほど惚れっぽくはない。この男の性格と物言いからして好感度が上がる要素もない。

「ふん、不遜なやつよ。まあよい、今は我もオフだ。寛大に見逃して──」

 と、男が尊大に喋っている途中、は市場の中にもうひとり見知った顔を目撃した。昨日の褐色美女だ。

(あっ……)

 が彼女の後ろ姿を認識すると同時に、褐色美女がこちらを振り向こうとして──
 気がつけば、男の手を引いて走り出していた。

「おい、貴様っ……!」

 後ろから非難めいた声が聞こえてきたが、今はそれを聞いている場合ではない。とにかく逃げなければ。無言で走るの様子に、抗議の声を上げていた男もやがて口を閉ざした。
 入り組んだ小道を選んで走り、時に人気のある通りに出て走り、また走り。どこをどう走ったかもわからなくなった。
 いつしか、が男を引っ張るのではなく、男がの手を引いていた。時折立ち止まり、ルートを見定めるように辺りを見渡して、また走る。が闇雲に進んだ行き先を修正するかのように。
 の息がかなり上がってきたところで、男が足を止めた。思わず膝に手をついて息を整える。こんなに走ったのは高校の体育祭以来かもしれない。

「どうやらドルセントは撒いたようだな」
「ど、る……?」
「貴様も会ったであろう。褐色の肌に長い髪の、抜け目のなさそうな女だ」
「はあ、あれ、ドルセントさんて、やっぱり追手なんですか」
「そうだ。オフの我を働かせんとする守銭奴よ」

 その言い草は美女に対するものとは思えなかったが、ドルセントの物腰やカンの鋭さを思い出すと、なぜか妙に納得できた。確かに初対面のもそう思った。

「あの……ところでここは?」

 息が落ち着いたところで辺りを見渡す。当然ながらまったく見知らぬ場所である。この男が引っ張るがままに走ってきたが、ここはどこなのか。
 男はふん、と鼻を鳴らした。

「市場だ」
「へ……? 市場って、さっきまでいた? 戻ってきたってことですか?」
「そうだ。先程とは違う、ちょうど正反対の位置にある出入口だ。貴様がどんどんあらぬ方向へと走るので、遠回りも遠回りだが戻ってきたのだ。市場を見に来たのに市場から離れては困るのでな」
「え……でも、ドルセントさんは」
「迂回を重ねたと言ったであろう。その最中にドルセントは撒いた。奴とて、先程見つかった場所に我等が戻ってくるとは思っておらんだろう」
「なるほど……」

 走りながらよく頭が回るものだ。追手は撒きたいけど元の場所からは離れたくない。いっぺんにそれを叶えるルートを取っていたというのか。

(プライベートビーチ持ってるっぽいし、もしかしてこの島に詳しいのかな)

 割と狭い、現地の人しか知らないような路地を通ったりしたのだが、追手を撒くためにそんな路地を活用するとなると、かなり島の地理に詳しいのだろう。この男は先程オフだと言っていたが、バカンスに来ただけではないような気がした。
 オーナー、というと、この島でなにか事業をしているのだろうか。その事業関連でこの島の地理を知り尽くした……というのが妥当な線か。
 ひと通り息が整ったところで、は繋いだままだった手を離した。

「あ、じゃあこのへんで……」
「待て」
「うひっ!?」

 歩き出そうとしたところで、手を再び鷲掴みにされた。

「貴様、このままで済むと思っとらんだろうな」
「は、はい?」
「この我をここまで走らせておいてただで済むと思っているのか」
「ただで、って……」

 いやあの状況でほかにどうしろというのか。ドルセントに見つかったらヤバいのはこの金髪だけで、は特に困らない。とっさとはいえ、仮にも助けてやったに対してなにを言っているのか。
 しかしこういう状況ではっきりと主張できるほどは図々しくなかった。狼狽していると、男がニタリと性悪そうな笑みを浮かべた。

「そう身構えるな。我に無礼を働きつつも助けたことには変わりない。礼をしてやろうと言っている」
(今のセリフのどこにそんな要素が……?)
「昨日のビーチでの働きといい、お前はよほど我の役に立ちたいようだからな。礼として市場を我自ら案内してやろうではないか!」
「え」
「我も市場を見て回るところであるし、お前は観光に来たのであろう? ならば一石二鳥というやつだ」
「え、えええ?」

 男はどうだ妙案だろうと言わんばかりに得意満面で胸を張っている。としては、確かに現地語もよくわからないしガイドがあるのはとても助かる。と言いたいところだが。

(この人といるとろくなことにならない気がする……)

 二日連続で、この男に会って早々よくわからない事態に巻き込まれている。この先もトラブルに遭遇するのではないかと確信に近い予感がするのだ。

「いやちょっとそれは……」
「貴様、この我がガイドをしてやろうと言うのだぞ……ここは感涙しながら頭を垂れるところであろう!」
「いたたたた力強いな……!? わ、わかりました、わかりましたから! お願いします!」

 掴まれた腕をギリギリと締め上げられ、恐怖のあまりについ頷いてしまった。この男、細身に見えて意外にも力が強い。着痩せするタイプか。

「うむ。この我の完璧なガイドぶりに慄くがよい。今までの無礼を泣いて詫びさせてやろう」
「無礼って言いますけど、そんなことしてましたっけ……」
「なに? 自分の所業を覚えておらんのか。まず我の頭に触れた女はお前が初めてだ」
「え」
「それと、我の手を引いて散々走らせた女もな」
(そんなことで……?)

 そんなのが無礼に当たるのだろうかと一瞬呆れてしまったが、よく考えると初対面で頭に触れるのは無礼に当たるのかもしれない。ふたつめに挙げられたものはよくわからないが、とは違う世界に住んでいる人間のようだし、深く考えても仕方ない気がしてきた。

「運動したせいで小腹が空いたな。朝食は取ったのか」
「え、あ、はい。コテージで食べてきたのでそんなにお腹は空いてな」
「そうか、ならばそこらの店で適当になにか買うか。食べ歩きというヤツだ」
「あの、話聞いて……」

 ひとりで勝手に話を進めると、男はの手を握って、上機嫌な様子で歩き出した。その動作があまりに自然だったため不思議に思わなかったが、食べ物を渡されて手を離した時にようやく気がついた。自然と手を繋いでいたのだ。
 胸の中心が、脈打った気がした。
 それから、広い市場をふたりで見て回った。金髪の男は通行人や行く先々の店で声をかけられ、売り物や食べ物を渡されていた。現地語のやり取りだったので、にはなにを話しているのかわからなかったが、人々が笑顔で金髪の男に声をかけているのが印象に残った。

(もしかしなくても、有名人なのかな……?)

 この島での事業関連で、地元の人たちとも関わりがある……らしい。それも、良い関係のようだ。
 渡された食べ物はそのままの口に放り込まれることが多かった。島で採れたフルーツや、パンで肉や魚を挟んだ軽食が、男の手によっての口に運び込まれる。そのどれもが美味しかった。男自身はたまにフルーツや焼いた魚を口にしていた。
 話しかけられる度に立ち止まっていたので、市場を見尽くした頃には昼時をとっくに過ぎておやつ時になっていた。近くのコテージ風のカフェに入って飲み物を注文したところで、はお腹を押さえて机に突っ伏した。

「お、おなかいっぱいです……もう食べられない……」

 昼ご飯を食べていないが、そんな必要はないくらいにお腹が膨れている。苦しいほどに食べ歩くなんて、食い倒れとはこのことか。

「食べ物を渡していたのは我だが、少しは自分で調節せんか」
「だって……全部美味しそうだったからつい……ほんと全部美味しかった……」
「であろう。隅々まで市場を満喫したのだ、腹も膨れよう」
「うん……ほんとに満喫しました。すごく楽しかったです」

 と言うと、男は満足そうに笑った。

「ふはは、この我が案内してやったのだから楽しくないはずがなかろう! 傷心旅行でひとりぶらぶらしているよりはよほどマシだろうさ」
「なっ……!? なんでそれを……!?」
「はっ、女が友も家族も連れずにひとり、目的もなくふらふらしているのだ。傷心旅行以外になにがある。バカンス前に恋人にフラれた人間ですと自己紹介しているようなものだ」
「うっ……ぐぬぬ……」

 あまりにも的を射すぎていてなにも言い返せなかった。弟は一緒に来ているものの、あいつは目の前のビーチに浮かれていて傷心の姉のことなどもはや眼中にない。この男の言う傷心旅行に来た人間像にドンピシャ状態であった。

「ふん、図星のあまりぐうの音も出ないようだな」
「むっ……! そうですよ、どうせ私は夏前にフラれた独り身のさびしい女ですよ!」
「なに、そう落ち込むことでもないぞ雑種」
「ざ、雑種……?」
「傷心旅行でこの島に来たことにより、我に出会ったのだ。この我と過ごすなどお前の一生に一度あるかないかの幸運よ」
「あーはいはいソウデスネー」

 やはり自意識過剰、それに加えて自信過剰である。確かにひとりで島を巡るよりは楽しかっただろうが、それが一生に一度あるかないかの幸運とか言われても困る。
 ジュースを飲み終えてカフェを出ようとしたところで、またもやの目に入る人影があった。ドルセントだ。

「あっ……やばい!」

 ここはカフェの軒先である。隠れるところなど軒先の柱の影しかなかった。とっさに男を自分のほうに引き寄せて影に隠れる。ドルセントの方向からだと上手く身を潜めれば見えないはずだ。
 引き寄せた男の体温が、一拍遅れて体に伝わってきた。
 男の身長は高い。肩も広い。背に腕を回すと、がっしりとした筋肉の感触がした。

「あの、もっとこっちに、隠れないと……」
「──随分積極的ではないか。再三にわたりこのような……我を籠絡する気か?」
「ひゃっ……!?」

 男をもっと引き寄せようとすると、低い声が耳元に響いた。
 男の腕が腰に回され、耳元に口を寄せられた。男の吐息が耳にかかり、思わず体が震える。

「ほう、耳が弱いのか」
「あっ……や、やだ、耳の近くで、喋らないで、んっ」
「しーっ……暴れるな、隠れないと見つかるぞ?」
「ひっ、そんなこと、言ったって、ん、体が勝手に」

 低く腰に響く声が耳を打つたびに、吐息が耳をくすぐるたびに、体が勝手に反応してしまうのだ。自分でも、どうしたら抑えられるのかわからないのに、この男はからかうように囁いてくる。
 震える体を、筋肉質な腕が強く抱き締める。お互いの呼吸はもちろん、心臓の音まで伝わってくるほどに体が密着している。

「傷心を慰めるのに、ひと夏の恋か。それもよかろう」
「な、なに言って……!」
「体が熱くなっているぞ? 我が欲しくなったか」

 体が熱い。南国の陽気のせいだけではない。伝わってくる肌の熱のせいだけではない。──体の中が熱い。

「そう煽るな。いじめたくなる」
「ひゃうっ……!」

 湿ったものが耳たぶを這った。ちろり、と先端を舐めたかと思うと、耳のひだをくちびるで挟み、弱く吸ってくる。敏感なそこは、かすかなリップ音と、舌が動く水音にも反応してしまう。

(こんなの、はじめて)

 触れ合った箇所が熱い。合わさった胸が痛い。押し付けられた腰が、苦しいほどに熱い──
 耳の下から顎の骨をなぞるようにくちびるが這う。その動きに合わせて顎を上げると、いい子だと言わんばかりに下顎にキスをされた。
 頬に手が当てられる。
 合わさった瞳。触れた指先は優しくて熱い。赤い宝石が、熱を孕んでこちらを捉えている。
 くちびるが薄く開いて、近づいてくる。

(キス、)

 目を閉じた。近づいてくる男の顔を見ていられなかった。
 頬に当てられたままの手が動いたのが伝わってきた。それから、くちびるに吐息。
 まぶたに力を込めた。込めて、──なにもなかった。

(あ、れ)

 くちびるにはなにも来なかった。少しだけまぶたを開くと、相変わらず彼の顔が目の前にあった。
 頬に当てた手の親指が、のくちびるに乗った。くちびるの柔らかさを確かめるように動いて、乗ったまま止まった。

「……? あ、の」

 ──その親指の上に、彼のくちびるが触れた。
 触れた分だけ、親指がの口を押した。
 声にならなかった。
 くちびるはどのくらい触れていたか。親指は、男の体は、どのくらいに触れていたか。何分か、それとも、すぐに離れたのか。
 いつからかふたりの間には隙間ができていて、熱はもう、伝わってこなかった。
 あんなに熱かった体の中も、すでに熱が逃げてしまった後だった。

「続きは、次に会った時だ」

 男の静かな声が落ちた。視線を上げると、赤い瞳がを見ていた。

「二度あることは三度あるとは、お前の国のことわざだったか。出かけてすぐに出くわすほどだ、また次があるやもしれぬ」
(……どうして、)

 こんなことをしたのか。
 なぜ、触れられただけであんなにも高まってしまったのか。
 なぜ、胸が苦しくなったのか。
 聞きたいこと、知りたいことはたくさんあった。けれど、この刹那の出会いに、なぜと問うことはできなかった。
 にもわからないからだ。
 なぜ、この男を助けるような真似をしたのか。なぜ、言われるがままに付き合っているのか。なぜ、触れられて拒絶しようと思わなかったのか。
 男の去り際に絞り出した言葉は、頭を満たしていた問いとはまったく違うものだった。

「あの、名前は」

 振り返った金髪の男は、相変わらず不敵に笑っていた。

「我の名が聞きたいのか。それとも、我のことが知りたいのか」

 虚を突かれて言葉を失った。男は、ふん、とまた鼻を鳴らした。

「まずお前の名を教えろ」
「え、あ……、です」
。我のことはギルとでも呼べ」
「ギル……?」
「今は、オフだからな」

 金髪の男──ギルは、そう言ってカフェを後にした。
 はその後ろ姿を追う気になれず、かといって観光に戻る気にもなれなかった。コテージに戻るまでの道すがら、少し遠回りになる海岸線をぼんやりと歩いた。ただ波の音と青い景色だけの世界に浸って、ほかのことはなにも考えたくなかった。
 コテージに戻る頃には夕飯の時間になっていた。弟は戻っているか、今日はなにを食べようかと考えていると、コテージへと続く道に、人が立っていることに気がついた。褐色の肌と葡萄色の髪の女。ドルセントだ。
 ドルセントはに気がつくと、にこやかに手を振って近寄ってきた。

「あ、おかえりなさ〜い。お待ちしておりました……と言いつつ、本当は途中まて後をつけてきたんです。ごめんなさい」
「ドルセント、さん」
「あ、私の名前、オーナーから聞いたんですね」

 ドルセント。語感の良さにそういう名前だと思い込んでいたが、改めて考えると偽名丸出しである。ギルが守銭奴と評していたことから、ギルが名付けたあだ名かもしれない。

「あの、ドルセントさんが探してるのって、ギル……でいいんですよね?」
「はい、その通りですよ。今日も出し抜かれてしまいましたわ……せっかくオフで開放的になったかと思いましたのに、新規事業にサインをしてくれないんです。確実に私が儲かるお話ですのに……」
「はあ……ドルセントさんは、ギルの……?」
「契約秘書ですわ。何人かいるうちのひとりですが」

 秘書。それも何人もいるときた。

「あの、ちなみにオーナーって、なんの……?」

 が恐る恐る尋ねると、ドルセントは目を丸くした。それから肩にかかった髪を払いながら困ったように笑った。

「あら。オーナーったら、そんなことも話さずに……となると、私が勝手に話すわけにはいきませんわ。私のことなら話せる範囲でお答えしますけど、オーナーのことは勝手に話すと怒られてしまいます」

 それもそうかもしれない。ギルのことを知りたいのは山々だが、彼の口から聞けなかったことは、おそらくが今知らなくてもよい情報なのだろう。本人に聞く前に他人から聞くのもよくない気がする。

「それでそれで、オーナーは今どちらにいるかご存知ですか?」

 ドルセントが身を乗り出して本題に入った。を待ち伏せしている理由としてはこれしかない。

「いえ、結構前に別れたので……」
「そうですかぁ……今日こそお仕事の話をしたいと思ってましたのに……」

 に礼を言うと、ドルセントは足早に去っていった。これから暗くなるまでもう少しギルを探すのかもしれない。
 何人も秘書がいる、日本語も島の言語も流暢なオーナー。
 好きになってはいけない人だと思ったの第一印象は間違っていなかった。あの若い見た目ですでにオーナーと呼ばれる立場にあり、オフでさえも秘書がついてくる。
 ──好きになってはいけないんだ。
 言い聞かせるように、強く思った。
 胸が痛くなったのは、きっと夕飯が近いせいだ。胸の中心がずきずきと痛むなんて、よっぽどお腹が空いているんだろう。

 ***

 翌日。
 三泊五日の旅の最終日。明日の朝には日本へ帰らなければいけない。
 今日は弟と一緒に商業施設で買い物と、島の観光施設を見て回ることにした。弟は二日間もビーチに出ていたのでこんがりと日に焼けていた。もこの二日で弟ほどではないが日焼けした。白のショートパンツと明るいオレンジの花柄シャツがよく映えた。
 一応水着は持ってきていたものの、ビーチで泳ごうという気にはならなかった。日中は観光客が多い、というか、カップルが多い。今はカップルの海水浴を見る気にならなかった。
 元気なうちにお土産選びを済ませようということで、午前中は買い物だ。家族を除けば、職場の部署と何人かの親しい友人ぐらいしかお土産を渡す相手がいない。弟は大学の友達や教授、バイト先、地元の友達などとたくさん買い込んでいた。
 ショッピングモールを見渡してみると、日本人の姿をちらほらと見かける。モール内の案内は英語であるし、片言でも身振り手振りを駆使したり、翻訳アプリを使えば案外なんとでもなるものだ。話せるともっと楽しくなるのだろうなと頭の片隅で思う。

(そういえば、元彼と計画立ててる時に、英語がどれくらいわかるかとか、話してたっけ)

 モール内のフードコートでハンバーガーにかじりつきながら、そんなことを思い出した。
 具体的な話をしようとすると、元彼は途端に反応が鈍くなったので随分気を揉んだものだ。計画を立てたいのに、の言うことも話半分に聞いているのでまったく話が進まない。お金のこととなるとなおさらであった。旅行の話をするとその進行のなさに疲れて、もういいといつも諦めていた。

、ちょっとトイレ行ってくる」
「んー」

 弟を見送って、気を抜くと垂れてくるソースに気を遣いながらハンバーガーをひと口かじる。
 冷静になって考えてみると、旅行の話をしたかった時には、すでに元彼の気持ちは完全にから離れていた。残業だのなんだのと言って少しずつと会う時間を減らしていたし、会ったとしても特に楽しそうな雰囲気ではなかった。
 社会人になって、就職した会社の同期だった。付き合って一年余り。新鮮さもなくなって、お互いの好きなところよりも嫌な部分に目がいくようになっていた。

(好きなところ……好きなところ? あれ……?)

 自分で思ったことに違和感を覚えた。
 私、元彼のどこが好きで付き合ったんだっけ。
 今思い浮かぶのは嫌なところだけだった。フラれた側ということもあるのかもしれないが、それでも互いに思いを伝えて恋人になって、色んなところに行ったりして一緒の時間を過ごしたのだ。キラキラした思い出とかあるはずだが。

(キラキラした思い出……? うーん……なんか、特に、思いつかない……)

 キラキラした、キラキラ……

『続きは、次に会った時だ』
(……!!)

 昨日のギルが突然思い浮かんだ。キラキラの関連で、彼の金髪が脳の検索機能に引っかかったのかもしれない。確かに見事な金髪だ。キラキラはしている。

(い、今はギルのことはいいから!)

 勢いよく首を振ってギルのことを頭から消そうとしても、なかなか消えてくれなかった。むしろ、考えないようにしようとすればするほど昨日のことを思い出してしまう。

(よ、よく考えたらカフェの店先であんなことを……!)

 公衆の面前で──あの時周りに人がいたかどうか覚えてないが──あんな、耳を散々なぶって、キスの寸前まで。

(ギル……ギルはどうして私にあんなことをしたんだろう)

 出会ってまだ二日目の、しかも旅行者にだ。出会った状況が特殊ではあるが、彼ほどの美形でおそらく地位も高い男が、取り立てて容姿に秀でているわけではない自分に興味を持つとは思えなかった。
 女と見ればすぐに手を出す好色男か、見た目ではなく別の面に興味を持ったか。

(よくわからない……ギルは、私のことどう思ってるのか……)

 そして、自分はギルのことをどう思っているのか。

(どうもこうも、旅行先でたまたま出会っただけの相手なんて、好きになっちゃいけない……どうせ明日には帰るんだから)

 そうだ。明日には日本に帰って現実に戻らなくてはいけないのだ。
 この三泊五日の間にあったことはすべて、つかの間の夢のようなものだ。の現実とは遠い。
 胸が苦しくなった。
 ギルは二度あることは三度あるなどと言っていたけれど、そう簡単にはいかないのが現実だ。現に、今日は彼の影すら見ていない。

(でも……もし、明日までにもう一度ギルに会えたら)

 その時は、どうしたらいいのだろう。
 どんな顔をして、なにを話そう。
 ──ギルは今、なにをしているんだろう。どこにいるんだろう。
 食べかけのハンバーガーをトレイに置いて、人でごった返すフードコートを見渡す。
 その中に、ギルらしき男はいない。あれだけの目立つ男、きっとこの人混みの中でもひと目でわかる。

「ただいまー。あれ、まだ食べてなかったんだ?」

 弟が戻ってきた。の食べかけのハンバーガーを見て意外そうに目を丸くしている。

「あ、うん、おかえり。遅かったね」
「いやートイレ混んでてさー」

 弟の話を聞きながら、そっと長い息を吐いた。
 沈みかけた気分は弟の登場で気が紛れた。今日一日、弟と一緒に行動することにしてよかったと思った。
 ギルのことで頭がいっぱいのままひとりで過ごすのは、あまりにも苦しいはずだ。



 お土産をホテルに預けた後、弟とふたりで観光スポットを見て回った。島に来た旅行者は大体見て回るであろう主要なスポットを、三日目にしてやっと訪れていることに不思議な気分になった。
 の二日間を、嵐みたいに突然現れて奪い去っていった男のことは、考えないようにした。
 海の中を窓越しに見ることができる船に乗った後、ベイエリアの近辺で夕食を取った。
 日中のような明るさの中で夕食を食べていると、時間の感覚がずれていくような気がする。日が落ちた後でお腹が空くこともある。旅行とはなぜこうも食欲が増すのか、不思議なものである。

(結局、ギルには会わなかったな……)

 コテージに戻るバスの中で、窓の外を流れる景色を眺めながら思う。
 どの観光スポットにも、彼らしき人は見かけなかった。移動のバスの中でも通りを眺めていたが、やはりどこにもいない。

(二度あることは三度ある、か……私とギルはそうじゃなかったみたい……ってなにがっかりしてんの!? 会わなくていいから!)

 会ってもどうしようもないのだ。それなら会わずに済んだほうがいい。

(あんな人、好きになっちゃいけないんだから、会わないほうがいい……)

 バスはコテージ近くの大通りに入った。ビーチが近い。夕食時を過ぎた今になって、ようやく日が赤くなっている。
 窓から差し込む夕日に目を細める。海に夕日が反射して眩しい。
 その、目を細めた時だった。
 誰もいないビーチに、人がひとり立っている。
 日没前とはいえ、まだまだビーチには観光客やサーファーがいる。そんな中で誰もいないビーチなんて。
 が知る限り、そんなところはひとつしかない。
 そのビーチにいる人間だって──

「あっ、ちょ、!?」
「先戻ってて!」

 バス停で停まったバスを衝動的に降りる。
 あの人影を見た瞬間から居ても立ってもいられなかった。
 だって、あれは。このビーチは、プライベートビーチだって言ってドヤ顔していたのだ、彼が。
 歩道を駆けてビーチに降りる。砂を蹴って、人影に向かって走る。

「来たか、
「──」

 ──ギル以外に、いない。
 振り返った彼の顔を見て、胸が詰まった。
 振り返る時にちょうど橙色に透ける金髪がなびくところとか、夕暮れの海と空を背にしたギルが悔しいほどにかっこいい。
 逆光でギルの表情はよく見えなかったが、声の調子でわかる。絶対に得意げで、意地悪げなあの顔をしている。

(っ……!)

 胸がいっぱいで詰まる、というより、ぐしゃぐしゃだった。なんでこんなにかっこいいんだとか、なんでそんな余裕そうなんだ悔しいとか、こっちは一日どれだけ気を揉んだと思ってるんだとか。
 会えて嬉しい、最後に会えてよかった、とか。
 色んな思いが溢れ返って、胸が痛い。なぜだか泣きそうになったのでギルに背を向けた。

「会って早々つれぬ女よ。顔を見せんか」

 背中の向こうからかけられた声は、そう言いつつも楽しそうだった。

「や、やだ、今の顔見られたくない」
「ほう、どんな顔をしている?」
「わ、わかんない……! けど、絶対変な顔してる」
「当ててやろうか」
「!」

 後ろから伸びてきた腕が、の体を捕らえた。ギルの感触と熱、声が、ゼロ距離になる。

「我に会えて安堵している顔だろう?」
「うう……そうだよ、ばか! ギルが昨日あんなこと言うから、こっちは一日……!」
「我に会いたくて仕方なかったか、そうかそうか」
「ちっ、ちがう……!」
「馬鹿め、このビーチに来たことこそ我に会いに来た証拠だ」
「……っ!」

 その通りだ。ビーチにたたずむ姿を見て、それが本当にギルかどうかわからないのに駆け出していた。
 しかし、この得意げな口ぶりの前でそれを素直に認めるのは悔しい。ギルの腕を振り払い、反論できない代わりに拳を胸にぶつけた。

「む、貴様、この我に手を上げるか」
「ばか! ばか!」
「やめんか、こら、口で罵るか手で殴るかどちらかにせよ!」
「ギルのばか、女たらし、金ぴか!」

 ぽかぽかとギルの胸をたたくの手を捕らえようとしてくる。捕まりそうになったはたたくのをやめて、砂浜を走り出した。

「ええいなんだその罵倒は! 待て、どこへ行く貴様! 待たんか!」

 もうぐちゃぐちゃだ。昨日と同じで、いやそれ以上に、色んな感情が胸の中で渋滞している。
 嬉しい、悔しい、切ない、苦しい、嬉しい。
 そのどれもが、後ろから追いかけてくる男によってもたらされるもの。

(ギルと会うと、ぐちゃぐちゃになる。どうすればいいかわからない……!)

 心も表情もこんなにぐちゃぐちゃになっているのに、ギルは悔しいくらいに涼しい顔をしている。を手のひらの上で転がして楽しんでいるのだ。

(私は、こんなに)

 足音がすぐ後ろまで迫っている、と思った瞬間、腕を掴まれた。後ろに引っ張られて、走っていた勢いそのままにギルの胸の中に飛び込んだ。

「いだっ」

 鼻っ柱を胸板にぶつけた。とても痛い。涙が滲んできた。

「貴様ぁ……この我から逃げられるとでも思ったか、全力で走らせおって」
「う、うう……!」
「……なにを泣いている。そんなに痛かったか」

 痛かった。痛かったが、今泣いているのは鼻の痛みのせいではない。渦巻く感情が処理しきれず、溢れてきてしまったのだ。

「ギルのせいで、もう心の中めちゃくちゃだよ……!」
「我のせいだと?」
「追われてるとかいきなり訳わかんないこと言うし、ほんとに謎の美女に追われてるし、いきなり耳にチューしてきたりするし、次に会う時はキスするとか言うし、もう訳がわからないよ!」

 自分でもなにを言っているのかわからない。ただ湧き上がる感情のままをギルにぶつけようと、懸命に口を動かした。

「傷心旅行のつもりで来たのに、こんなふうに、私の頭の中にすぐ入り込んできていっぱいにして、ギルと一緒にいると楽しくて、全然元彼のことなんて思い出す暇なくて、あんな、キス寸前のことされて焦らされたら、会いたくて仕方なくなるに決まってる!」

 ギルはなにも言わない。ただが気持ちを吐き出すのを静かに待っている。

「オーナーとか呼ばれてるし、プライベートビーチなんて持ってるし、謎の美人秘書もいるし、そんな、そんなの、絶対好きになっちゃいけない人だって、思ってたのに……!」

 言葉が出てこなくなった。感情に言葉が追いつかなくなったのだ。代わりに涙が止まらなくなった。
 泣きたいわけじゃなかったのに、泣かずにはいられなくなった。
 こんなに感情に振り回されるのは初めてで、泣く以外どうすればいいのかわからなかった。ギルの胸にすがって、気が済むまで泣いた。
 いやだ。こんなふうに出会ったギルと、今日で終わりだなんて。もっと会いたかった。もっと彼を知りたかった。
 本当は、もっとこうして、触れあっていたいのに。
 の嗚咽が落ち着くころに、ギルが口を開いた。

「馬鹿な女だ」

 静かな声だった。気を抜くと波の音にかき消されそうな声。
 気になって胸から顔を上げると、ギルの顔が目の前にあった。

「ギ、」

 呼びかける声は、くちびるとくちびるの間に消えた。
 くちびるからギルの温もりが伝わってくる。触れ合っているところが増えたんだな、と思った。
 重ねるだけのキスをして、ギルは離れた。

「くちびるも瞳も、我に惚れていると素直に認めているのに、心だけが無駄な抵抗をしている。馬鹿な女だ」
「な……」
「好きになってはいけないと考えるとは、その時点で既に好意を持っているということだろう。我に惚れている立派な証拠だ」
「ギル……」

 見上げた赤い瞳はの姿を映している。瞳に映った自分の顔は、強情っぱりが負けを認めざるを得なくなったような、そんな情けない顔をしていた。
 本当は、もうとっくに気づいている。好きになってはいけないなんて抵抗をしていたけれど、そんなのはまったくの無駄だった。
 好きになってしまったんだ、この男を。

「──昨日の続きをせねばな」
「ギ、んっ……」

 またくちびるが重なった。彼の名を呼びかけた口の隙間からするりと舌が滑り込んできた。中に引っ込んでいたの舌を見つけると、逃すまいと絡みついてきた。

「ん、ちゅ、はあっ……」

 舌に完全に吸いつかれてしまったら、後はどうすることもできなかった。息が苦しくなるまでギルの舌に翻弄されるしかなかった。
 ちゅぱ、というリップ音と、ぬちゅ、という口内の唾液をかき回す音が、の思考を奪っていく。
 ギルに触れているところが、どこもかしこも熱い。くちびるも、舌も腕も体も。

(キスだけで、こんなに気持ちいいなんて)

 絡まる舌がこんなに気持ちいいなんて、初めて知った。激しいキスではないのに、息つく暇も惜しくて舌を求めてしまって、息が苦しい。もっとギルのくちびるが欲しい、舌が欲しい、唾液が欲しい。
 それはギルも同じようで、に求められるまでもなく、絶え間なく舌を使ってくる。
 腰に回されたギルの手が、露出していた素肌を撫でた。熱い指の感触に体が跳ねる。それだけで腰砕けになってしまい、は思わず砂の上にへたり込んだ。

「ん、はあっ、待って、はあ、」

 下腹部を襲った電流、その疼きに耐えられなかったのだ。目の前のギルにすがりつく間もなかった。砂浜には小石ひとつ落ちてないので、へたり込んでも砂の柔らかい感触しかしなかった。

(キスが気持ちよすぎて、私の体、変になってる……)

 下腹部の疼きが止まらない。キスは苦しいものだったのに、それ以上に気持ちよくて、また求めてしまっている。
 そして、それ以上も。


「あ……ん、は、ぁん」

 砂浜に膝をついたギルが、の体を抱き寄せてまたキスをしてきた。今度はもすぐに、舌を合わせにいった。
 波の音に交じって、ふたりの息遣いと、くちびるを吸い合う音。
 この広いビーチで、ふたりだけでこんなことをしているなんて。
 とても贅沢で、すごくいけないことをしているような気分になる。
 気が付くとは砂の上に倒されていて、ギルの手によってシャツをはだけられ、肌を愛でられていた。

「この二日ほどで焼けたな」
「んっ……や、焼けたとこ、舐めちゃ、」
「痛むか」
「痛くない、けど、あっ」
「どれ、白い肌も愛でてやろう」
「ひゃっ……!」

 左鎖骨の下あたりをきつく吸われた。ちゅう、と音を立てながら口が離れていったと思ったら、その下をまた吸われた。短く吸って音を立てたり、長くきつく吸われたりするたびに、体の熱が高まっていく。胸元を繰り返し吸われていると、いつの間にかギルの左手が胸を揉んでいた。

「ゃ、あん、ギ、ルぅ……!」

 肌に吸い付いては離れるくちびるが熱い。その熱さに体が敏感に反応し、性感帯に触れられたわけでもないのに腰が跳ねる。胸元に埋まるギルの頭を抱えるように腕を回しているが、半ばすがりついているようなものだった。
 このまま、ギルとこのビーチで。
 一層胸が高鳴った。それに呼応するように、体がカッと熱くなった。このまま、熱い砂の上で。普段ならそんなことできるわけがないと思うところだが、今はそれよりも、ギルが欲しかった。
 ギルの体も熱い。吐息が、柔らかく這う指が、くちびるが、舌が熱い。ギルも、欲しいと思ってくれている──
 そう思い、体から力が抜けた瞬間に、ギルは体を離した。

「え……」

 くちびるが離れ、の体を抱いていた腕が離れ、ギルは立ち上がった。砂の上で座り込んだまま放心しているのを見下ろして、こう言った。

「この続きは、次にとっておく」
「は……はああ?」
「ここで貴様をモノにしてしまっては趣向に欠ける。今日はここまでだ」
「なに、それ!」

 勝手すぎる。ここまでをその気にさせておいて、そんな勝手な言い分で放り出すなんて。怒りで体に力が戻り、立ち上がって金髪の男を睨みつけた。

「次はお前を抱く」
「次って、そんなのないよ! だって私は、明日には……!」

 日本へ帰るんだから、という言葉は続かなかった。ギルのくちびるがもう一度の口を塞いだのだ。

「我とお前ならば心配いらんだろう。二度あることは三度ある。ならば四度目もあるだろうさ」
「……ギル」
「三度目まで偶然ならば、四度目はなんなのだろうな」

 名前しか知らない、住んでいる国も違うふたりが、四度目に出会う。それは──
 ギルが去った砂浜の上に立ち尽くしていたは、戻らない姉を心配して探しに来た弟に連れられてコテージへと戻った。
 コテージに入って、まず向かった先はシャワールームだった。
 とにかく早くシャワーを浴びたい。すぐにでも、彼の名残がある体を流してしまいたい。
 蛇口を捻って、水の温度が調節されるまで待って、頭から浴びた。残っていたギルの唾液も、くちびるの感触も、これで綺麗に流れていくだろう。洗い流すことで、忘れてしまいたかった。
 シャワールームの鏡を見ると、自分の鎖骨から胸にかけて赤い花が散っていた。
 シャワーで消えない、彼の残したあと。
 こみ上げてくるものを堪えきれなかった。
 鏡の中の赤いあとに手を伸ばすと、決壊したように涙がこぼれてきた。

(こんなの、こんなのって、どうすればいいの、ギル!)

 なぜ最後まで抱いてくれなかったのだ。燃え上がるように高まった体と心を、どうして散らしてくれなかったのだ。
 ひと夏の恋。ギルはそう言ったけれど、違う。
 そんなきれいなものではない。好きだと認めるのが怖くて、やっと認められたと思ったら突き放されて、もはや帰るしかなくなった無様なこれは、そんなものではない。
 の心に傷を残すものだ。思い出になんてそう簡単にならないものだ。

 ***

 日本へ帰ると途端に重苦しく湿気た空気が体を包み、ああ帰ってきたんだなと実感した。
 数日時差ボケで眠れなかったものの、週をまたぐとそれもなくなった。荷物も片付けたし、部署にも友人にも土産の菓子を配り終え、旅行に関することはあらかた終わらせてしまった。弟もすでにバイトに精を出しているし、思い出すこともそのうちなくなるだろう。なくなるといい。
 時折、焼けた肌が痛むように感じる。
 もう焼けてから数日経つのだ、痛むはずがないからの気のせいで間違いない。しかし、ひりひりとする。ひりひりするたびに、あの三日間と、触れられた指の感触を思い出して、胸が痛い。
 戻ってきてから痛感したことが、最後の日に抱かれなくてよかったということだ。
 別れた直後は抱いてくれなかったことを恨めしく思ったが、抱かれてしまえば、体にも彼を刻みつけられて、絶対に忘れられなくなる。今でさえこんなに苦しいのに、ギルの熱も激しさも直に肌で感じてしまったらどんなにつらくなるんだろう。

(まだ忘れられない、忘れたいのに)

 失恋を慰める、ひと夏の恋。
 それでいいはずなのに、忘れようとするたびに胸が痛くなった。ギルを思い出すたびに恋しくて、また会いたくなる。

(会いたいと思ったところで会えるわけない。名前しか知らない、普段どこでなにをしているのかも知らないんだから……)

 その気持ちを振り切ろうと、この二週間ほど仕事に打ち込んでみた。家にいるとふとした時に思い出すので、なるべく会社にいるようにしたかった。
 仕事さえしていれば、考える時間が少なくなったような気がした。

「藤丸。ここ、引っ張ってくる数字が違う」
「あっ……すみません、すぐに直します」

 しかし、仕事にかける時間は増えたものの、成果が上がっているのかというとそうでもない。むしろ細かいミスが増えて、こうしてやり直しになることが増えた。ちらりと上司の顔色を見ると、刺すような目線でこちらを見ていた。

(私、なにやってるんだろ……)

 ため息をつくと、ため息をつきたいのはこっちのほうだと言わんばかりに睨まれた。大きなミスではないが、こんなことを繰り返していては仕事が進まない。いい加減気持ちを切り替えねば。

「わかっているようだが、そんなことではいかんぞ。集中しなさい」
「……はい、すみません」
「君ひとりのミスが全体にも及んでるんだぞ」
「はい……」

 ついに説教を食らうはめになってしまった。しかし、この二週間は本当にミスばかりだったので仕方ないといえばそうだった。この中年の上司は、普段は比較的温厚だが、話が長いのが欠点だった。つまり説教も長い。

「体調が悪いのか? ここ最近ずっとこんな感じだが」
「いえ、そういうわけでは……」
「なら集中しなさい。やる気がなければ帰っても……」
「──ほう、帰ってもいいのだな。ならばこの娘は早退だ」
「は?」
「……え……」

 背後から聞こえてきた低い声に、の思考が止まった。
 この張りのある低い声。尊大な調子を隠そうともしない、傲岸不遜な声は。
 忘れもしない、あの島で短いバカンスをともに過ごした男の声。
 上司がの背後を見上げ、あんぐりと口を開けて固まっている。ゆっくりと後ろを振り向くと、金髪に宝石のような赤い目のド派手な男が仁王立ちしていた。
 と目が合うと、ニタリと目を細めた。

「久しぶりだな。しかし再会の喜びに浸るのは後だ。こんなところではろくにムードも出んからな」
「え、あっ、ちょっと……!?」
「な、なんだね君は! どこへ行くのかね!?」

 半ば放心状態のの手を取って退出しようとするギル。よりも早く立ち直った上司が当然の質問をギルに投げかけるが、ギルは面倒だとでも言いたげにため息をつき、どこからともなく取り出した現ナマを上司の顔に叩きつけた。

「やかましいぞ雑種め。この女は今日は早退だ、金はそれで足りるだろう」
「な、な!?」
「藤丸の有休を買い取ると言っているのだ」

 と吐き捨てると、の手を引いてさっさと歩き出した。
 一体なにが起こっているんだこれは。
 仕事でミスをして怒られていたはずだ。その途中で、島でそれっきりだと思っていた男がいきなり乱入してきて、訳のわからないことを言って自分を会社から連れ出している。

(なんで、どうしてギルがここに!?)

 なぜ、ギルがの会社に、というか日本にいるのだ。
 なぜ伝えていないのフルネームを知っているのだ。
 どうして、どうして。本当に会いに来てくれたの?
 は混乱の極みにあった。そんなをギルは連れ出し、社の正面につけていた車の後部座席に放り込むと、自分も同じように後部座席に乗り込んできた。ギルがなにも言わずとも車は静かに発進した。
 まだ状況を把握しきれずに目を瞬かせていたは、ギルがいきなりのしかかってきたことで意識を取り戻した。問答無用で近づいてくるくちびるを手で防ぐ。

「ちょっ、や、やめて……!」
「む、再会のキスを拒むとは、相変わらずつれぬ女だ。まさか我を忘れたとは言うまいな」
「わっ、忘れてない! 忘れるわけない……!」
「ふん、そうでなくてはな」
「まっ、待って、なんでここにギルが、ちゃんと説明してよ!」
「説明? そんなことを、今本当に聞きたいのか」

 再びキスをしようとしてくるギルを押しとどめて叫んだが、ギルはの抵抗をものともせずに口を近づけてくる。

「ほかに交わすべき言葉があるだろう」
「え……?」
「──会いたかったぞ、
「……っ! ギ、ん、はあっ……」

 今度は防げなかった。くちびるが触れた途端に体に力が入らなくなってしまい、ギルの舌が入ってくるのをただ受け入れるしかなかった。舌を軽く引っ張られると、甘い痺れが走る。それだけで声が出てしまいそうになる。
 体から力が抜けたと同時に、思考能力も失われてしまったらしい。今はただ、目の前の男のことしか考えられない。
 最後にちゅ、と音を立てて口が離れた。いつの間にかシートに体を倒されていて、ギルが上に乗っかっていた。も、彼の背にいつの間にか腕を回していた。

「……私も、会いたかった。会いたかったの、ギル……」

 こうして触れ合っているのがたまらなく嬉しい。もう二度と会えないと思っていたから、これが夢なんじゃないのかと思う。けれど、伝わってくる体温は本物だ。
 本物の、ギルだ。
 忘れようとして、忘れられるはずがなかった。どんなに会いたかったか。

「ようやく素直になったか。まあ、表情だけは我に会いたくて仕方なかったとずっと訴えていたが」
「え、そ、そうなの?」
「お前は自覚しているよりもずっと顔に出ているぞ。さて、約束を果たさねばな」
「約束?」
「とぼけおって」

 すうっと目が細くなった。まるで獲物を前にした蛇のような目に、どくりと心臓が脈打った。

「次はお前を抱く。そう言ったはずだ」
「ギル……」
「今日はなにがなんでも抱く。今から我に散らされる覚悟を決めておけ」

 それからなにを言っても、ギルはを離してくれなかった。
 ハイアットとかグランドとかプリンスという言葉が付きそうなホテルのスイートルームに連れ込まれ、やはり問答無用でベッドに押し倒されてしまった。信じられないくらいに寝心地がいいベッドの上に転がされても、寝心地がどうかなどと感じる暇もなかった。
 道中、会社に荷物が、と言っても「後で人をやる」と返されて、それきりなにも言わせてもらえなくなった。ギル以外のことを口にすると、口をくちびるでふさがれてしまうのだ。

「ん、は……ぁ、っ」

 今も、執拗に続くキスで呼吸を乱されている。ベッドの上で、本格的に服を剥ぎ取られながら唾液を飲まされている。
 呼吸が苦しくて、息を吸うために喉を鳴らして唾液を飲み込むと、呼吸の苦しさからではなく、頭がぼんやりしてくるような気がする。
 こんな、唾液を飲まされるような深いキスをしたのは、ギルが初めてだった。元彼ともこんなことをしたことがない。キスがこんなに苦しくて、気持ちがいいなんて、この男が初めて教えたことだ。
 いつの間にかくちびるが離れていたと思ったら、が上半身にまとっていた服はすべて脱がされていた。

「あっ……や、ん、はずかしい……」
「隠すと煽っているようにしか思えんな」
「あっ……!」

 手で胸を隠したが、片手でその抵抗を封じられてしまった。ライトの下にあらわになった乳房は白く、その頂は触れられてもいないのに形を成していた。ギルがもう片方の手で乳房を包んでくる。

「キスだけでこうなってしまったのか?」
「っ……! や、あんっ……」

 羞恥心を煽られて頬を赤らめたを見下ろして、意地悪げに笑っている。
 胸を揉んでいた手が乳首を指で押し潰してきた。くにくに、と粒を転がすようにいじられると、あられもない声が上がってしまう。
 そこはだめだ。そこをいじられると途端に体がいやらしくなってしまうのだ。
 そんなところを好きになった男に触れられて、気持ちよくないはずがない。

「ここが好きなのか?」
「いや、あっ、そんなこと、聞かないで、あんっ」
「このように乳首をおっ立てておいて、しらを切るつもりか? どれ……」
「あっ、あぁん……!」

 片方の乳首を口に含まれた。口でちゅうちゅうと吸ったかと思うと、舌で乳首全体を激しく舐めしゃぶってくる。それだけでも体を跳ねさせてしまうのに、さらに甘く歯を立ててくる。

「はあっ、あっ、だめ、噛まないで、やあっ……!」
「うむ、よい反応だ。やはりここが好きなのだな、お前は」
「や、あん、そこ、だめなのぉ……!」
「そうかそうか、こちらもいじってやらねばな」
「あっ、だめだってば、ああっ……!」

 ギルはそう言ってもう片方の乳首にも吸い付いた。

「ちくび、だめ、へんになるっ……!」

 目線を下げると、ギルが自分の胸をべろりと舐めている姿が目に入ってきた。それがなぜたがとてもいやらしく感じられて、体がさらに熱くなった。
 ずっと会いたかった。忘れようとしても忘れられなくて、そうするたびにあの島でのことが頭に焼き付いて、余計に苦しくなった。失恋の気晴らしに行ったのに、ひと夏の恋と呼ぶには苦しすぎる恋をしてしまった。
 その相手に、体を暴かれている。
 こうして会えただけでも嬉しいのに、こんなふうに求められて嬉しくないはずがなかった。

(これが今日だけの夢でもいい。私だってギルが欲しい)

 顔を上げたギルに手を伸ばし、のほうからキスをした。

「!」

 ギルは驚いたように一瞬固まっていたが、すぐにと舌を絡め合った。ちゅ、ちゅぱ、と音を立てながらお互いの口を吸う。さらにギルを求めるように背にしがみつくと、ギルが興奮したように舌の動きを激しくした。

「どうした、急に積極的になったではないか」
「だって……私だって、ギルが欲しいから……恥ずかしいけど、えっちなこと、いっぱいしてほしい……」
「──」

 恥ずかしくて顔が熱いが、なんとか最後まで言った。しかしギルの反応がない。なにか気に食わないことでも言っただろうかと不安になっていると、ファスナーが壊れるのではないかと思うほどの勢いでスカートを下ろされた。

「ちょっ、ギル!?」
「いいだろう、望み通り一晩中犯してやる!」

 スカートをどこかへと放り投げたギルは、の脚を掴むと大きく股を広げた。パンティの上からの股間に鼻先を埋めると、そのままパンティごと舐め始めた。

「ギル、あっ!? や、やだ、パンツ舐めないで、ああっ」
「どうせここを舐めるのだ、下着ごと舐めるのとそう変わるまい」
「やだやだ、そんなの汚いからぁっ……! や、あんっ、だ、めぇっ」

 下着なんて汗やらなにやらがついていて汚いし、なによりそれを唾液でべとべとにされると困る。帰る時どうすればいいのだ。
 しかしギルの舌は止まらない。敏感な突起も愛液に濡れるひだも、粘着質な音を立てながら舐め続けている。布が擦れて、不思議な感じだった。
 しかし、そうこうしているうちに、布の感触がなんだかもどかしくなってきた。ざらついた舌で直接刺激してほしい。クリトリスも、ひだも、入り口も、直接。

「ん、やあ……脱ぎたい、ギル……」
「どうした、直接欲しくなったか」

 問いに小さく頷く。の反応に笑みを浮かべると、ギルは一旦顔を離してのパンティを下ろしてやり、クロッチ部分が唾液でべとべとになったそれをまたどこかへと放った。

「ひ、あ、ああっ……!」

 舌が、再びの股間を攻める。入り口を超えて中まで舌先がたどり着いて、チロチロといたぶってくる。待ちかねた舌のざらざらとした感触に、我慢できずにあられもない声が出てしまう。

「あっ、はぁんっ」

 突起を強く吸われ、嬲られて高まっていた体は軽く痙攣した。
 初めて前戯で果ててしまった。前戯で、というか、性行為全体を通して果てるということがほとんどなかった。元彼とはどうだったのかもうよく覚えていないが、とにかく達した記憶はほとんどない。こんな執拗な愛撫を受けたのは初めてだった。
 がぼんやりしているうちに、ギルも服をすべて脱いだようで、再び両脚を掴まれた時には全裸だった。
 くちゅ、と入り口に熱いものが当てられたかと思うと、ギルはそのまま体を倒して腰を進ませてきた。
 中は一度達しているとはいえ、まだ少し狭かったようで、痛みが走った。太くて熱いモノが、進みにくそうにゆっくりと動いている。

「あ、い、痛い……ギル、まって、もっとゆっくり……」
「貴様、処女か? 経験済みかと思っていたが、っ、狭いな」
「いや、処女じゃ、ないんだけど……」
「ふん、よほど前の男がお粗末だったか、我が大きいかだな。そのどちらもかもしれんが」
「あ、そう……」

 すごい自信満々になにを言ってるんだと思ったが、確かに大きい、かもしれない。男のナニを比較できるほどの経験はないので真偽の程は定かではないが、少なくともギルの肉棒は、の中でメリメリと音を立てそうなほどである。


「ん、ぅ……」

 ギルは上体を倒してキスをしてきた。激しい舌の絡ませ方ではなく、ねっとりと舌どうしを合わせ、その感触を味わうようなものだった。

「んぁっ、ふ、ぅう」

 の口の中に入ってきた舌が上顎を撫でた。尖らせた舌先で歯の裏側をそろりと撫でられると、ぞくぞくと快感が走った。
 そんなところが気持ちいいなんて、知らなかった。
 嬌声を上げるに構わず、ギルは続けてそこばかりを攻める。口の中に溜まる唾液を飲み込むことも忘れて、ギルにしがみついて刺激に耐える。口の端から唾液がこぼれ始めてから、やっとキスが終わった。
 ほっと呼吸を整える間もなく、中のものをぐっと奥へ押し込まれた。

「あっ……! ギ、ル……」
「全て入ったぞ。わかるか、我が奥を押し上げているのが」
「う、んぅ……」

 そんな事言われてもよく分からなかったが、の尻にギルの体がぴったりくっついたのはわかった。受け入れるだけでも苦しかったが、それを上回ってを満たしているのは、幸福感だった。



 名を呼ばれた。の前髪をかき分けてサイドへと流した指は優しくて、問答無用でホテルへと連れ込んだ男のものとは思えない。
 けれど、は知っている。この男の指先は存外に優しいのだ。しかし、柔らかい手つきとは裏腹に熱を孕んでいる。その熱が、を狂わせる。

(ああ、やっぱり、好き。ギルが好き)

 どちらともなくくちびるを合わせる。今度は舌を控えめに。くちびるの感触を楽しむように食む。
 何度リップ音を立てたかわからなくなるほどそうしていた。気づけばギルは腰を動かしていて、の口からは甘い声が漏れ出ていた。

「あっ、は、あっ……!」
「狭いな、処女を犯している気分になるほどだぞ、
「あん、なに言って、んあっ」
「しかし、絡みついてくる。我がそんなに欲しいのか、ん?」
「あっ、んんっ、そう、だよ、ギルが好き、欲しいの……!」

 自分でもわかる。ギルが腰を引くたびに中のものを離すまいと絡みつくのが。
 心は当然のこと、体も、ギルを欲している。あの島で触れあってからずっと、くすぶり続けていたのだ。

「よいぞ、欲しければくれてやる! それでこそだ、日本まで捕まえに来たかいがある」

 と言うと、ギルはの片脚を肩に乗せ、を横向きにして正常位から横向きにを貫く体勢になる。今まで刺激されたことのないところに肉棒を穿たれて、は叫んだ。

「ひゃあっ……! そこ、やあっ! だめ、あっ、だめぇっ」
「っ、締まる……! この体位は初めてか? どうやらここが弱いらしいぞ、お前の中は」
「ひ、あっ、こんなの、はじめてなの、あんっ」
「まったく、お前を振った男はなにをしていたのだ。まあ、おかげでお前を開発していく楽しみが増えたわけだが」

 ギルが呆れたようにため息をついたが、にはそれを聞く余裕はなかった。

「あんっ、そこ、ぐにぐに、しないでぇっ……!」
「そことはどこだ、はっきり言わねばわからんぞ。ここか、ん?」
「あっ、だめ、そこも、だめ、よこ、突かないで、」
「さて、違ったか。では、ここか」
「ひゃああっ……! や、あっ、そこ、ひ、あぁんっ」

 膣の側面を先っぽで擦り上げられるのが、こんなに気持ちいいなんて。突かれるごとに電流が走ったかのような感覚が奥に伝わり、切ないような痺れるような快感が広がるのだ。あまりの快感の強さに、叫ぶように喘ぐことしかできない。

「ああん、だめ、そんなにしたら、あっ、へんになる、は、ああっ……!」

 体勢を変えてからそう経たずに、は腰を震わせて達した。頭の中がチカチカしたかと思うと背が反って、一気に快楽の波が押し寄せてきた。
 イってしまった。こんなに簡単にイってしまうものなのか。自分がそんな体をしていたなんて知らなかった。というか、この男が上手いのか。もうなにもわからない。初めてのことだらけだ。
 荒くなった息を繰り返す間、ギルはの体や顔にキスを降らせていた。腰は動かさずに、体を撫で、くちびるで愛撫を繰り返すだけだ。

(もしかして、私のペースに合わせてくれてる……?)

 ギルを見ると、の視線に気がついて見つめ返してくる。その目は静かなようで、奥に熱を孕んでいる。

「ん、はあ、はあ……ギル……も、いいよ……」
「その呼吸で言われて頷くと思うのか。お前を抱きに来たと言ったが、無理をさせに来たわけではない」
「ギル……」
「我は、お前と愛を交わしに来たのだ」
「──!」

 心を確かめるように、くちびるを吸って、肌を重ねて、互いの存在をまるごと愛す。
 それが本来の性行為なのだと、突きつけられた気がした。

「ふ、獣のように貪り合うのもまた一興だろうが、それは互いを知り尽くした後のほうが楽しめよう。今は」
「ん、ギル……は、あっ……!」
「存分に愛し合おうではないか……!」

 正常位の体勢で再び動き出したギルは、徐々に腰の律動を速めていった。に覆いかぶさるように体を倒し、抱き合いながら中を突き上げた。

「は、あんっ、ん、ふぅっ」

 キスを交わして、激しく体を合わせて、またキスをして。もギルも言葉はなく、ただ互いを求め合い、高まりあっていく。

「あっ、ああっ、ぎる、好き、好きぃっ……!」
「、っ……!」
「はあっ、ん、も、イく、ああぁっ……!」

 最後にキスを交わし、ギルの動きと息遣いが激しくなった。の中もいっそう収縮している。襲い来る激感に、はたくましい背にしがみついて叫んだ。
 直後にの体は極まり、ギルも息を詰めて果てた。
 汗にまみれた体を重ね合って乱れた呼吸を繰り返す。汗と熱に混じって、どくどくという心臓の音まで伝わってくるような気がした。
 ギルの呼吸、熱、心臓の音。
 それらを感じられることが、言葉にできないほどに嬉しくて、満たされた気持ちになる。
 もう会えないと思っていた、恋しい男。
 その彼と、愛を交わしたのだ。これが幸せでなくてなんなんだろう。
 絶頂と幸福感の余韻に浸りながら、は目を閉じた。

 ***

 次に目を覚ますと、カーテンの隙間からオレンジ色が混じった空が見えた。ぼんやりと、ああ夕方か、と思った。

「起きたか」

 すぐそばで声がした。窓の反対側に首を向けると、ギルが裸のままですぐ隣に寝そべって、優雅に片肘をついていた。
 彼を見て思い出した。そうだ、いきなりやってきた彼に連れ出されて、島での約束通りに抱かれたのだ。
 ぼんやりした頭が急に覚醒した。自分の体もまだ裸でシーツ一枚が乗っているだけである。股に違和感はないので、ギルが拭ってくれたようだ。

「今何時、ていうか私どれくらい寝てた!?」
「落ち着け、七時前だ」
「うそ……」

 会社から拉致されたのが何時だったか性格には覚えていないが、確か三時前ぐらいだった。それからホテルに連れてこられて、セックスして、それから……

「ご、ごめん! 三時間も寝てた!」
「まったくだ。この我を煽っておいて即寝落ちとは、不敬にもほどがあるぞ貴様」
「も、申し訳ない……なんか、ほんと気持ちよかったし、あんなにイったの初めてだったから……」
「……ふん、まあいい。貴様が寝ている間、まったく楽しめなかったわけでもない」
「え」
「ああ、ドルセントがお前の荷物を回収して持ってきていたな。後で一応中身を確認しておけ」
「え、あ、うん、ありがとう……」
(寝てる間、なにされたんだろう……)

 非常に気になることを言っていたが、すぐに話を変えられてしまった上に、それきり口を閉ざされてしまった。なんとなく深く追求するのは野暮な気がして、それ以上は聞かなかった。
 それに、そんなことよりも聞きたいことがある。

「ギル……あの、聞いてもいい?」
「ん、なんだ」
「ギルは、どうして私を追ってきたの?」

 ギルと再会してからずっと頭にあった疑問を投げかける。
 あの島での最後の日。ギルがを突き放したのは、遠回しにフラれたのだと思っていた。ひと夏の恋、バカンスの間の火遊び。それで終わらせたかったから、最後までに触れなかったのだと、そう思っていた。
 けれど、ギルは再びの前に現れた。わざわざの本名も勤め先まで調べて、日本に来て、愛を交わした。
 それがわからないのだ。終わらせたかったのなら、なぜ再び現れたのか。ギルの気持ちがわからない。
 ギルは片肘をついたまま小さく息を吐いて、を見下ろした。

「お前が初めてだったからだ」

 なんの、と目で先を促す。

「我に恋を教えたのは」

 息を呑んだ。赤い瞳が、ただ静かにを捉えていた。

「欲しいと思う女はこれまでにもいた。愛を向けられたこともあった。それなりに女を愛でてきたが、恋というものをしたのは、あの島でお前に会ってからだ」
「恋……」
「恋というのは、相手を夢見ること、なのだな。──明日も会えるか、などと期待させる女は、お前が初めてだ」

 明日も会えるか。明日はどこにいるのか、今なにをしているのか。
 もし会えたら、なにを話そうか。
 そんなことを思って過ごしていたのは、だけではなかったのか。
 ギルも、同じように思っていてくれたということなのか。

「お前は、ひと夏の恋を終わらせるために最後に抱かずに別れたのだと思っているようだが、それは違う。我は、終わらせないために抱かなかった」
「……!」
「あそこで抱けば、どこかで納得してしまう部分が出てくるかもしれぬ。これでひと夏の恋は終わったのだと。旅行先で出会った男女がセックスオンザビーチ。それぞれ帰途についてきれいな思い出に。はっ、そんなものどこぞの犬にでも食わせておけ! 少なくとも我には必要ない」
「ギ、ギル……」
「確かに、あの島での我とお前はひと夏の恋というやつかもしれぬ。だが、それがバカンスの終わりとともに散らなければならない理由はどこにある? 我は認めんぞ。この胸の高鳴りを我に教えておいて、夏が終われば思い出に昇華するなど断じて認めん。我ひとりが想っているなぞあってたまるか。──それが理由だ」

 最初から、ギルには終わらせるつもりなどなかった。
 恋い焦がれていたのは、自分だけではなかった。ギルも、同じように、いや、もしかするとそれ以上に。
 嬉しい。嬉しすぎて、どうにかなってしまいそう。
 好きだと口にしたはいいものの、ギルの気持ちが不確かだった。優しく、熱く触れてくるくちびると、先ほどの行為から気持ちはなんとなく伝わってきたけれど、それでも言葉にしてくれるとこんなにも嬉しいなんて。
 好きとか愛してるとか、そういう言葉ではないけれど、さっきの発言は要するに。
 に熱い恋をしていると、そう告げているのと同じだ。
 ──こっちだってそうだ。忘れようとしてもできなかった。いっそう胸に焼き付いてしまった、この気持ち。
 そんな恋をした相手から告白されて、嬉しくないはずがない。

「……なにを泣いている」

 勢い余って熱烈な告白をしてしまい、誠に遺憾みたいな顔をしたギルが、手を伸ばしてきた。目元を拭われてから、ようやく自分が涙を流していることに気が付いた。

「……嬉しすぎて、泣けてきちゃった」
「馬鹿め、泣くぐらいなら我にぶつけろ。我を大好きだと高らかに叫んで抱き着くがよい」
「……もう、ばか」
「我が好きなのは事実だろう?」
「〜〜っ、そうだよ、ばか!」

 悔し紛れに叫んでから目の前のたくましい胸に飛びついた。の行動などお見通しのようで、急に抱き着いてもギルは動じなかった。すぐに腕を回されて、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられた。
 彼氏にフラれて、荒れた心を癒すつもりで行った南の島。
 そこで出会ったのは、フラれたことも元彼のことも、なにもかも吹き飛ばすような、嵐みたいな男。
 派手で、開口一番に追われているなんて冗談みたいなことを言って、なんだかすごいお金持ちっぽくて。
 近くにいるとどきどきして、離れても頭から離れなくて、会いたくなって、触れると胸が苦しくて。
 忘れられるはずがない。諦められるはずがない。
 あの夏の島で、どうしようもなく恋をしてしまったのだから。



「ねえ、ギル」
「なんだ」
「ギルの名前、教えてよ」

 しばらく裸のまま抱き合っていたが、不意にこの男のことをほとんどなにも知らないことを思い出した。
 いつの間に調べたのか、ギルはの個人情報を把握しているようだが、こちらはギルという呼び名しか知らない。
 これからどんどん知っていけばいい。まず、名前から。
 ギルは、ニヤリと赤い目を細めた。

「──我の名が聞きたいのか。それとも、我のことが知りたいのか」
「あ……それ、」

 あの島でギルの名を聞いた時の台詞だ。その時は一体なにを言っているんだろうと思っていたが、今聞くと、まるで今の状況を見透かしたかのような台詞だ。
 あの時とは違って、彼はの答えを待っていた。も、あの時とは違って、明確な答えを持っていた。

「ギルのことが、知りたい」

 そう告げると、血を固めたような瞳の奥が、一瞬、濃い色で満たされた。

「ギルガメッシュ。それが我の名だ」
「ギルガメッシュ……」

 が彼の名をくちびるに乗せると、それが合図だった。
 ギルガメッシュの手がの肌を滑る。の手がギルガメッシュの頭を引き寄せる。
 あとは、互いを知り合う時間だ。


 

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