タケミカヅチ、猫になる
※名前変換ありません
八咫烏のカァ君は普段から博識を披露することが多い。なにかにつけてあれはこういういわれがあって、それはこういう逸話があって、と、うんちくを述べる。悪く言えば口うるさいのだが、そのほとんどはタケミカヅチの動向を心配してのこととわかっているので、タケミカヅチ自身はカァ君の話を素直に聞いていることが多い。タケミカヅチは武神であるし、なにぶん知識には疎いと感じる場面もある。そういった時に知識を授けてくれるカァ君は、タケミカヅチにとってはありがたい存在だと思っている。
「最近は術をもって我々を阻害しようとする敵も増えてきましたね」
その日の討伐を終えて帰る途中、カァ君が言った。確かに、このところ敵もあの手この手でタケミカヅチ一行を妨害してくる。単純な武力でぶつかってくるだけならまだやりやすいのだが、術で体の動きを封じてきたり、力を弱めてくるものもいる。そういった術は巫覡の力がないと解けない。
職業ごとに向き不向きがあり、そしてその職業は多種に及ぶ。連れていける人数が限られているのに、その人選に苦心する要素が増えてきて、なかなか頭を悩ませる日が続いている。全職業を連れていくことができれば悩まずに済むのに。そうは思うものの、自分の身を守ることで手いっぱいになりそうな敵の強さを考えると、むやみに手勢を多くしてもまとめ切れるかどうかが不安だ。やはり少数精鋭で討伐をこなしていくのが妥当だろう。
「ああ、あれはやっかいだな」
「戦闘中に表れるならまだしも、後々になって影響してくる術もあるみたいですからね。タケミカヅチ殿、十分注意してくださいね」
「ああ、わかっている」
「本当ですか? 前みたいにほうっておけば治るとか言って体の異変を放置したりしたら、ただじゃおきませんからね」
「わ、わかっている。もうあんなことはしない」
前科があるタケミカヅチが信用できないのか、カァ君が疑いの目でタケミカヅチをにらんでくる。痛いところをつかれたタケミカヅチは、手を顔の前で振って、カァ君の視線を逃れようとする。
ここのところ無茶もしていないし、ケガはかすり傷以外はなるべく早めに診てもらうことにしている。もう仲間に信用されていない状態ではないのだし、無意識に気を張りすぎているということもない。と思う。
カァ君の追撃をなんとかかわし、タケミカヅチは八尋殿に帰着した。もう日が落ちてだいぶ経っている。同行していた仲間に解散を告げて、タケミカヅチも自分の部屋へと戻る。もう遅いので、主への報告は明日にしよう。
(本音を言えば、主君の顔を見てから休みたかったが……)
さすがに、もう休んでいてもおかしくない刻限だ。床に入ってしまっていたら迷惑になりかねないし、こんな遅い時間に訪れるというのも失礼だろう。主君の顔を思い浮かべるだけにして、今日はさっさと休んでしまおう。
(明日は、朝一番に主君に会いに行こう……はやく、会いたい)
顔を思い出すと、一層顔が見たくなってしまった。はやく、とはやる気持ちを抑えて、タケミカヅチは床についた。
「……タケミカヅチどの、タケミカヅチ殿?」
翌朝、自分を呼ぶ声で目を覚ました。目を開けてみれば、いつも目覚める時間よりも高い位置に日が昇ってしまっている。なんてことだ、討伐後で疲れていたとはいえ、寝坊とは。
急いで身を起こす。それから、寝台から降りようとして、異変に気が付いた。なんだか寝台が広い。それに、部屋もいつもより広く感じる。天井も高いし寝台も高い。こんな部屋だっただろうか。
まだ寝ぼけているのかと瞼をこすろうとして、その感触に固まる。なんだか毛がふさふさとして柔らかい。自分の手を見ると、黒い毛で一面覆われているではないか。
(なっ……!? なんだ、これは!? どうなっている!?)
見れば、毛で覆われているのは手だけではなかった。足もだ。しかもその足はだいぶ短くなっている。自分の姿を見てみようと、普段あまり使われることがない鏡を探した。
鏡は小物類が入っている小物入れの上に伏せて置いてあった。寝台から降り、小物入れに近寄ってみる。が、今のタケミカヅチは四足歩行になってしまっていて、手を使うことができない。鏡を持つことができないのだ。
(四足……? まるで人の姿ではないかのような……)
肌色が見えないレベルで毛におおわれている時点で人の姿ではないのかもしれない、と思っていたが、これではまるで……
「タケミカヅチ殿ー? いらっしゃらないのですか?」
部屋の外からかけられた声はカァ君のものだ。先ほどタケミカヅチを起こした声も同じものだ。これは天の助けと、タケミカヅチは扉へと近寄った。
そびえたつ扉を体で押してなんとか開ける。少し空いた隙間から、カァ君が顔をのぞかせる。
「なんだ、いるんだったら返事くらい……あれ、いない……?」
「っ……! にゃあ!」
(俺はここだ、カラス殿! ……にゃあ!?)
にゃあ、と自分ののどから出た声に驚く。これではまるで猫の鳴き声ではないか。呆然としていると、カァ君が声に気づき、タケミカヅチの目の前に降り立った。
「おや、猫……? タケミカヅチ殿の飼い猫ですか?」
「にゃ、にゃあ」(違う、俺がタケミカヅチだカラス殿!)
「……ん?」
カァ君が怪訝そうな表情になる。もしかして、タケミカヅチの言っていることがわかるのだろうか。
「にゃあ!」(カラス殿!)
「この声は……タケミカヅチ殿? もしかしてアナタ、タケミカヅチ殿ですか?」
(そうだ、タケミカヅチだ!)
なんと、どういうわけかタケミカヅチの声はカァ君には理解できるらしい。さすが人語を解するカラス。どういう理屈かさっぱりわからないが、タケミカヅチにとっては天の助けだ。
「え、ええぇ!? なんでいきなり猫の姿に!?」
(それが、俺にもわからなくて……今朝起きたらこうなっていたんだ)
やはりカァ君から見ても、タケミカヅチは猫になっているようだ。カァ君の声が思ったより大きいので、周囲に悟られないかひやりとしたが、幸いあたりには誰もいなかった。
「ふうむ……なにかの術、ですかねぇ……タケミカヅチ殿の行動を妨害しようとする呪詛か何かの類だと考えられますが」
(術……呪詛?)
「昨日言ったでしょう、術効果はその時にすぐに表れるものだけではなく、後々になって出てくるものもあると」
(これがそうだというのか?)
「そうとしか考えられません。アナタが猫になりたいと願ったわけではないんでしょう?」
大きく頷く。願ったところで他の動物に変化できるものでもない。
「ならば、敵の妨害の一種だと考えた方がいいでしょう。なにか、解く手段があれば……とにかく、主様のところへ行ってみましょう」
(主君……)
会いたい、朝一番に会いに行こうと思っていたのに、こんな姿になってしまっては会わせる顔がない。武神ともあろうものが、敵の妨害にまんまと引っかかってしまうとは。
主の部屋に向かってとことこ歩いていると、主がちょうど部屋から出てきた。濡れ縁に出てきたところで、タケミカヅチと目が合った。
「あれ……?」
(……?)
タケミカヅチを見るや否や、こちらに足早に寄ってくる。まさか、一目見ただけで自分の正体に気が付いてくれたのでは……?と淡い期待を抱いたタケミカヅチだったが、次の瞬間にその期待は打ち砕かれた。
「猫だぁ、珍しい」
といってしゃがんで目線を合わせてくる。確かに神や妖が集まる八尋殿には、そうそう野生の猫などは見かけない。物珍しそうにする主の反応もうなずけるものがあった。
「あ、主様、実はですね……」
「真っ黒な猫ちゃん、どこから来たの? 撫でさせてくれるかな?」
「あ、あの……」
カァ君の言葉がまるで届いていない。タケミカヅチに恐る恐る手を伸ばしてくる。おとなしくそこから動かずにその手を受け入れると、タケミカヅチの背を撫でた。嬉しそうに破顔する。
「かっ、可愛い……」
(主君、カラス殿の話を……ああいけない、ごろごろ……)
顎をかかれたら、猫の身としてはごろごろと鳴いてしまうのは仕方がないのだ。カァ君は相変わらず主の周りを飛び回って話をしようとしているが、主は珍しい猫に夢中だった。タケミカヅチはなにもできず、ただ主に撫でられるしかない。
「おとなしいね、キミ。誰かの飼い猫かな? でもそんな話、誰からも聞いたことないなあ……」
さしたる抵抗もせずに撫でられ続けるタケミカヅチを不思議に思ったのか、主がそんなことを口にした。チャンスとばかりにカァ君が主の近くに降り立つ。
「主様、その猫なんですが……」
「ねえカァ君、誰かが猫飼ってるなんて聞いたことある? 野良がいつくことなんてほとんどないよねぇ……ヤマオロシさんも、畑仕事とかしてて猫がいるとかそんな話したことないし」
「あ、あの……」
「あっ、ヤマトタケルがいる、ちょっと聞いてみよう」
(あっ、主君!?)
主は突然タケミカヅチを抱きあげると、先ほど口に昇ったヤマトタケルの元へと歩み寄った。濡れ縁を歩いてくるヤマトタケルは眠たそうにあくびをかみ殺していたが、主の姿を見かけると片手を上げた。
「おはよう主」
「おはよう。ねえ、この猫見たことある?」
「猫?」
今まで主の胸元に抱きかかえられていたのに、言われて今気づきましたとばかりに視線を猫に向けるヤマトタケル。じっと見下ろされて、タケミカヅチはつい居心地悪く感じてしまう。
「どっから拾ってきたんだ? スサノヲじゃあるまいし」
「違うよ、私もさっき見かけたの。人に慣れてるっぽいし、私にもヤマトタケルにも怖がらないし、やっぱり飼い猫なのかな。誰かが飼ってるとか、そういう話知らない?」
「俺が知ってると思うか?」
「……ごめん、思わない」
「だろ」
「そこはドヤ顔するとこじゃないから」
なぜか勝ち誇ったような顔をするヤマトタケルに突っ込んでから、主は困ったようなため息を吐いた。
「うーん……迷い猫とかだったら、飼い主を探してあげないといけないよね」
「……別にいいんじゃないか、もう主の猫で」
「え、でも……」
「じゃあほかの八傑連中に預けるか? 俺が言うのもアレだけど、たぶんひどいぞ」
「ひどいって、あのね……まあ、不安がないわけじゃない、けど……」
「そいつ、主に懐いてるみたいだし、それでいいんじゃないか」
そうかな、と主はつぶやいてタケミカヅチを見下ろす。確かに懐いている、というか慕っているし誰かの飼い猫でもないから飼い主を探すという手間なことはしなくていい。ヤマトタケルは明らかに面倒ごとに巻き込まれたくない一心でそんなテキトーなことを言っているのだと思うが、今はそれに同意する意味で、にゃあ、と鳴いてみせた。
「じゃあ、しばらく私が預かろうかな。キミに、ほかに行くところがなければの話だけど」
「あ、主様ー!?」
どうかな、と主に顔をのぞき込まれる。その顔の近さに身を引こうとするが、主に抱きかかえられているのでそれはできなかった。カァ君が主の提案に抗議するかのように周りを飛び回る。タケミカヅチのことを説明したいのに、なぜかことごとくタイミングを逃してしまっている。
ヤマトタケルに限らず、八傑はどこかカァ君の言うことを右から左に聞き流す傾向がある。おそらく、カァ君の言うことがうんちくと説教で八割方構成されているからだろうが。主もまさかそうなのだろうか。
だが、今の主の提案は悪くないものだ。この姿のままでは、タケミカヅチ自身にできることなどあまりない。誰かに保護してもらってこの術を解いてもらうほかないのだ。安全面でいえば、主のそばが一番確実だ。本来守るべき存在に庇護してもらうというのはまったくの不本意ではあるが。
嫌がる様子を見せない猫に、主は提案を受け入れられたと取ったようだ。嬉しそうに笑みをこぼすと、タケミカヅチの頭を自分の胸に引き寄せた。
(しゅ、主君……)
その胸の中の心地よさといったら。主のにおいと柔らかい体の──特に胸のふくらみの──感触と、暖かい人のぬくもり。極楽……と思ってしまうのは男のサガだ。今は猫たが。
(いや、猫だからこそ味わえる感触だ……)
これが仮に元の姿のままだったら。主の胸の中に顔をうずめるなんて一生できないかもしれない。仮の仮にそうなったとしたら、とても平静でいられる自信がない。心の奥底にしまっている思慕のままに無体を働いてしまうかもしれない。
思わずふにゃ……とゆるみきった顔をしていると、カァ君とヤマトタケルにジト目を送られてしまった。カァ君は「この非常時になに幸せそうな顔してんだ」の目線だろうが、ヤマトタケルはなぜタケミカヅチを睨んでくるのだろう。
「こいつ、絶対オスだな。確かめなくてもわかる」
「は?」
突然なにを言い出したのか、という表情の主を置いて、ヤマトタケルは面倒事はごめんだと言わんばかりに去っていった。主は彼の気まぐれな様子に小さく息を吐いて、タケミカヅチを抱え直した。
うるさく飛び回るカァ君を従えながら部屋へと戻った主は、自分の膝の上にタケミカヅチを下ろした。主の腕から解放されて安堵半分残念半分といった複雑な気持ちになる。しかし、すぐに主の膝の上ということに顔を上げた。主はタケミカヅチの様子にも気づかず、背中をカリカリとかいてくる。
「それでカァ君、タケミカヅチがなんて?」
「はあ……その、なんと言いますか……」
ごろごろ、と喉を鳴らしているタケミカヅチをちらりと見たカァ君が、再び半目になる。八百万界のためにも早くこの変化を解かなければならないのだが、タケミカヅチは主の膝の上でとても幸せそうにしている。
「今日はまだ姿を見てないけど、もう討伐のほうに行っちゃったのかな? 昨日の討伐でなにか気になることでもあったのかな……昨日帰還が遅かったみたいだし」
「……うーん、主様……」
「こういうこと言ってると、心配かけたみたいでタケミカヅチは申し訳ない、とか思っちゃうのかもしれないなぁ……カァ君、私が今言ったこと内緒にしてね」
「は、はぁ……言わないでおきます」
ただし本人がアナタの膝で聞いておりますが。カァ君はそのセリフを飲み込むと、大きなため息をついた。
「わかりました、今タケミカヅチ殿(を治す方法)を探してまいります。主様、こちらでその猫と一緒にいてくださいね」
「カァ君?」
というと、カァ君はどこかへと飛び去ってしまった。主はしばらく彼の飛び去った方を怪訝そうに見ていたが、やがて猫を撫でる手を再開した。
「さて、私は役目があるからあまり構ってもやれないんだけど。キミ、ついてくる?」
主の問いかけににゃあ、と鳴き声を返す。主に構ってもらえずとも、そばに置いてもらえるだけで御の字だ。少なくともこの八尋殿は悪霊が出る心配もないだろうし、ほかの英傑のもとではどんな目にあうかいまいち不安である。主の役目が終わるまでおとなしくしているくらい、造作もない。
それから主は各施設を見て回り、錬金堂で皆の装備品を作ったり、庭で花の世話をしたり、昼からは八尋殿の周囲を覆っている結界などを見て回った。八尋殿は広い。歩いて回るだけでもなかなかに時間がかかってしまう。その行く先々で仲間に行き会うと二、三言葉を交わす。その後、八尋殿に戻って色々な雑務をこなしていると、あっという間に日が傾いていた。
濡れ縁に座り、タケミカヅチを胸に抱いて、主はふうとため息をついた。さすがに少々疲れているようだ。主を気遣うように、頬にすり寄る。
「ふふ、気を遣ってくれてるの? ありがとう、優しいんだね」
タケミカヅチに優しく微笑んだかと思うと、しかし次の瞬間にはその表情が曇る。なにかあったのだろうかと主の顔をじっと見つめる。
「タケミカヅチ、遅いな……なにかあったのかな……」
思わず身を硬くする。主の表情が芳しくない理由が、まさか自分だとは。
「カァ君もあれから戻ってこないし、連絡を送ってもなにも返ってこないし。誰もタケミカヅチを見たって人いなかったし。どうしたんだろう……タケミカヅチってね、強くてまっすぐで優しいひとなんだよ。だから、なにかあったらすぐに連絡をくれるはずなんだけど……」
ぽつりとこぼれるように出てくる主の言葉は、どれもタケミカヅチを心配するものだった。それを聞くたびに、タケミカヅチの心は締め付けられる。
こんなに主を心配させるなんて。今すぐ君のタケミカヅチはここだと叫んで安心させたいのに、出てくるのは人語にならない鳴き声だけ。今すぐその手を握ってやりたいのに、猫の足ではそれができない。
(主君、俺はここだ、ずっと君のそばにいるんだ。どうか、気づいてくれ)
もう一度頬を擦り寄せようと顔を近づけたその時、主もタケミカヅチのほうを向いた。必然的に、猫の口と主のくちびるが触れあった。
「!」
その瞬間、まばゆい光がタケミカヅチを包んだ。その光は一瞬ののちにすぐに収まった。強い光に閉じていた目を開くと、やはり目の前に主の顔がある。そういえば、口と口が触れあってしまったのだった、と思うや否や、主が体勢を崩して後ろに倒れてしまった。主を押しつぶさないように、とっさに主の顔の横に手をつく。
(…………ん? 手?)
手だ。人間の。主の顔の横に。
「こ、これは……!」
「たっ、タケミカヅチ!? なんで、え、どこから出てきたの!? ていうかいつの間に!?」
タケミカヅチが声をあげるのと同時に、主から混乱したような問いが矢継ぎ早に浴びせられた。目を真ん丸に見開いてタケミカヅチを見上げている。そして言った、自分に向かってタケミカヅチと。
「も、元の姿に戻った……! 主君、ありがとう!」
「えっ、なに、ちょっとまっていちから説明して! あと、その、どいてくれる?」
「あっ、すまない」
主の上にのしかかったままだったのをすっかり失念していた。主が体勢を立て直すのを待ってから、ことの顛末をざっくりと説明した。
「ふうん……で、術はなぜかさっきの私の口づけで解けたってこと、なのかな」
「おそらくは……俺はこういった術や呪詛に詳しくないので、はっきりとはわからないが」
「まあ、主様の口づけには破魔の効果があるのでしょうね。異国のおとぎ話にもあるじゃないですか、口づけで呪いを解く話が」
「わっ、カァ君! 帰ってたの?」
「はい。ただいま帰りました」
いつの間にかカァ君が近くまで来ていた。音もなく主の横に降りたつと、「結局ほぼ自力で解いてしまわれたのですね……解呪の方法を探し回っていたのですが……」と肩を落とした。主は苦笑いすると、ねぎらうようにカァ君の頭を優しくかいてやった。
確かにくちびるが触れた瞬間に体から光が出た。それに、独神はなんとも不思議な力を持っている。単純な武力とも術の力とも違うなにか。その中に破魔の力が含まれていたとしても不思議ではない。
「うん、確かにあの猫はタケミカヅチだったんだね」
「俺の話を信じてくれるのか?」
「目の前で猫からタケミカヅチに変わったのを見たら、そりゃ信じるよ。ていうか、まだ耳と尻尾が残ってるしね」
「え?」
主の指摘を受けて、自分の頭に手をやってみる。確かに、尖った耳が二つある。後ろを振り返っても尻尾がある。
「なかなかしつこい術だな」
「うん……あの、それで」
「うん?」
「解いたほうがいいよね、それ」
「そうだな。このままだと滑稽な姿だろう」
「いや、滑稽ではないんだけど……あの、じゃあ、目つぶって」
「主君?」
「口づけで解けるんだ、よね……だから……」
主の頬が、夕日のせいではなく赤く染まっている。主の言いたいことを理解したタケミカヅチの顔にも熱が上っていく。
主と口づけをするのだ、これから。タケミカヅチにかけられた術を完全に解くために。あの柔らかいくちびるを、もう一度自分のものと触れあわせて。
はっと気づいてカァ君のほうを見るが、カァ君の姿が見当たらない。いつの間にか空気を呼んで退散したらしい。賢い鳥だ。
主が膝立ちになる。タケミカヅチの両肩に手を置いて、顔の高さを合わせた。
「目、つぶって……」
「主君……」
主の吐息を頬に感じながら目を閉じる。ぐっと自分の両肩に力が込められたかと思うと、そっとくちびるにやわらかな感触が下りた。数瞬後、頭部と尾てい骨の違和感が消えた。術が解けたようだ。
主が離れようとする気配がくちびるを通して伝わってきた。それを感じ取ったタケミカヅチは、気が付けば目の前の体に腕を回し、自分のほうへ引き寄せていた。
「……! っ、ん……」
主の体が逃げないように右手でしっかりと抱き、左手を頭の後ろに回した。薄く目を開けると、さらに頬を赤く染めた主がタケミカヅチの口づけを受け入れていた。
(っ、主君……!)
欲するがままに、主のくちびるを強く吸う。顔の角度を変えて、さらに深く合わさる。苦しげにくちびるの隙間から吐息が漏れる。それすらもタケミカヅチを煽る材料でしかない。
主を愛おしいと、ただひとりの存在だと思う気持ちがあふれてしまったかのように、無心で主のくちびるを求める。強く合わさっては離れ、完全に離れ切る前にまたかぶせる。
どれくらいそうしていただろうか。最後に音を立てて強く吸って、ようやく主から離れる。そのころには主の息はすっかり上がって、耳まで真っ赤になっていた。
「もう、こんなにするなんて……」
「す、すまない……嫌、だっただろうか」
そのうるんだ瞳ににらまれ、タケミカヅチは思わず謝った。その言葉にムッとしたように主はくちびるを尖らせる。
「……嫌だったら、突き飛ばしてるよ」
「嫌ではなかったということか?」
「んもう、鈍いなぁ……嫌じゃないよ」
「主君……!」
主の一言にぱっと顔を輝かせたタケミカヅチが主に手を伸ばす。しかし、体を引き寄せる寸前でその手を振り払われる。
「きょ、今日はもうダメ! これ以上は無理!」
「主君?」
「もう恥ずかしさでどうにかなりそうだし……それにタケミカヅチ、もう変化が解けたからいいものの、悪霊になにかされたのは確かなんだから、ほかに異変がないか診てもらったほうがいいんじゃない?」
「そ、それは確かにそうだが……」
体はもうなんともないし、自分から見てもなんの異変もない。本音を言えばもっと主に触れていたい。しかし、猫になる前に確たる変調を自覚できなかったことから、敵に巧妙に仕掛けられたのは間違いない。タケミカヅチが感じ取れない術がまだ残っていては、また面倒な事態になってしまう。
「だから、今はアマテラスとツクヨミのところに行って診てもらったほうがいい」
「……そうだな。主君の言うことはもっともだ」
もっともなのだが、この高まった気持ちのやり場がない。心配させた手前、ここで主の言うことを突っぱねることはできない。だが、元の姿で主と触れあえた喜びは、もっと触れたいという気持ちはどうしたらいいのだろう。行き場をなくして、タケミカヅチの中でくすぶっている。
「う……そんな顔しても、体を診てもらうのが先だからね」
意気消沈しているのが顔に出ていたのか、主がそっぽを向いた。
わかっている。今日一日で主やカァ君にどれだけ心配をかけたのかも、猫の変化が解けたのも幸運に過ぎないことも。
「……では主君、俺はこれで失礼する」
おとなしく立ち上がると、主が安堵したかのようにタケミカヅチほうへ向き直った。わがままを言う子供に困った母親のような顔をしていた。
「困らせてすまない。だが……さっきのことは、気分が盛り上がってとか、そういうことではないことだけは、わかってくれ」
「……!」
「主としてだけではなく、君を思い慕っている。これからも変わらず、君のそばに置いてほしい」
困らせるとわかっていても、言わずにはいられなかった。主に、自分の行動を気の迷いだとか気分だとか、そういった行動にとってほしくなかった。
(わがままを言って困らせる……確かに、そうだな。この気持ちを分かってもらいたいのも、主のそばに置いてほしいのも、俺の勝手なわがままだ)
なにかを言いかけた主を残して、タケミカヅチはその場を離れた。これ以上とどまっていると、またなにか困らせるようなことを言ってしまいそうだった。
主の部屋から離れ、アマテラスとツクヨミはどこだろう、と周囲に目をやると、カァ君がどこからともなく降りてきた。どうやら主とのやり取りが終わるまで待っていたようだ。
「あまり主様を口説かないでもらえますか?」
「……聞いていたのか?」
「聞いていたわけではありませんが、主様の動揺が少しですが伝わってくるので」
「……なるほど。まぁ、今夜はよく頭を冷やすことにするよ」
「はぁ、そうしてください」
カァ君の今日何度目になるかもわからないジト目から逃れるように、頭を軽く横に振る。カァ君はその様子を見て、これも何度目かわからないため息をついた。
(主君……俺の気持ちを知って、どう思っただろうか)
先ほどはなにも聞かずに立ち去ったが、主はなにを言いかけたのだろう。今更ながらに気になってくる。振り切るようにその場を離れたのはタケミカヅチのほうなのに。
つくづく自分勝手な感情だと思う。迷惑になると知りつつも思いを告げたり、ままならない心を自制したくてなにも聞かずに去ったのに、知りたがる。触れられると平静でいられる自信がないのに、そばにいて触れてほしいと願う。
(ままならないな)
身勝手な感情だと思うのに、自分だけではどうしようもないのだ。それが一番厄介だった。